記紀では特に見受けられない東国におけるオホ氏の活躍は、『常陸国風土記』をみると随所にみられます。これは物部氏においても同様です。このことについて、太田亮さんは『日本古代史新研究(磯部甲陽堂)』のなかで「これは二氏のそれが早く忘れられた爲であつて、傳説の殘つて居るのよりは古かつたのではないかと思ふ」と述べております。
 ここで太田さんがいう傳説(でんせつ)とは、祟神天皇時代の四道将軍や毛野氏の蝦夷征伐などのことです。なるほどたしかに記紀においては祟神天皇の時代に大物主が祟り、オホタタネコがオホ氏の末裔として現れているのですから、オホ氏の活躍はその時代において既に過去のものであったということは頷けます。
 しかし太田さんの着目点はそこではありません。太田さんは、それらの蝦夷征伐が白河口と越後口になっていることに着目しているのです。そして「表日本に手をつけない前に困難な中道や裏日本方面を經營する筈がないのである」と語ります。
 ここだけ見ると、白河口はともかく、裏日本――日本海側――云々というのは比較的近現代の発想であり、古代においては当該エリアが先進地域であった発想が抜けているように思えますが、誤解を招かないように予め申し上げておくと、太田さんはその記述の前に後世の源頼朝の奥州征伐のルートを引き合いに出しており、それが上古における古代氏族進出のルートでもあるとして、それにリンクする安倍氏や毛野氏の氏族分布を語った上での展開であることをつけくわえておきます。
 ちなみに頼朝のルートというのは、

1、勿来を越えて太平洋岸を進む
2、白河から阿武隈川に沿うて行く
3、越後の磐船から日本海岸に出る

の三道を指します。
 ここで越後の「磐船(いわふね)」という地名を見て「お」と思った方の勘はもしかしたら的を射ているかもしれません。ここは大化4年(648)に磐船柵がつくられたエリアです。
 『白鳥伝説(小学館)』の谷川健一さんは、阿倍比羅夫が180艘の船団をひきいて北征に出発する際ここには北方鎮護を目的とした四天王が祀られたとみており、その話の延長上で新潟県の弥彦神社やそれ以北の日本海沿岸に点在する夷狄(いてき)の神古四王(こしおう)神社との因果も無視できません。
 いずれ、磐船柵という朝廷の城柵が築かれる以前には既に「磐船」なる地名があったのでしょうし、なにしろ当地の式内社「石船(いわふね)神社」の主祭神はニギハヤヒなのです。
 当然ここにはニギハヤヒ降臨伝承の影響を感じさせますし、それはつまり物部氏の分布をほぼ確信させ得る痕跡といっていいかと思われます。
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本来は海から直接連絡されていたのでしょうか
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神社前の港

 したがって、この磐船における物部氏の痕跡が少なくとも大化年代を遡ることは確実なわけであり、これが日本海沿岸伝いでのものであることを考えると、必ずしも太田さんのいうところには若干の受け入れがたさもあるのですが、そこはあくまで鹿島・香取の分布――関東発――を前提とした話と受け止めるならば至極納得のいく論説かと思います。
 そもそもここで太田さんが言いたいことは、鹿島・香取の分社の分布が東北地方の太平洋岸にのみ展開していることと、それを奉斎する氏族の分布、すなわち消去法によって残った多氏と物部氏の分布が、頼朝ルートのうち太平洋岸のみ偏っていること、そして海岸沿いを征して段階的に内地を征するのが自然であるはずという観点から、鹿島・香取――多・物部――の分布は、“より古体を残した分布”であると考え至っているのです。
 それにしても、私は必ずしも『常陸国風土記』や太田さんが言うように“征伐”という形ではなかったかと思うのです。
 後世、大和朝廷は国家をあげて蝦夷討伐に取り組んでも尚大苦戦をしているのです。蝦夷とは大和に追われた一氏族が単独で征伐できるような相手ではないと考えられます。したがって征伐という形ではなく、平家落人伝説のごとく逃げ延びた斜陽化の一族たちは、まさに「芸は身をたすく」で、持ち前の先進テクノロジーを提供することで先住の夷狄とごく自然に同化していったのではないでしょうか。
 高橋富雄さんはそのような展開を「文化征服」と名付けておりましたが、絶妙な表現と言わざるを得ません。
 あるいはこう思うのです。
 後世大和朝廷が征伐しようとした奥羽の夷狄とは、必ずしも先住の蝦夷ではなく、多氏や物部氏といった、かつて畿内を席巻していた古代氏族の末裔たちではなかったかと・・・。
 たとえば、『ゆりかごのヤマト王朝(本の森)』の千城央さんは、あくまで老婆の昔話という設定ではありますが、アテルイを「照井一族」の第一党を表す「ア・テルイ」であるとしております。
 それによらずとも、宮城県北部から岩手県の照井姓の中には、自らを「アテルイ」の末裔と称する方もいらっしゃるようです。
 紫桃正隆さんは『石巻地方の史談と遺聞(宝文堂)』のなかで、岩手県稗貫郡で自らの学生時代の親友「照井君」を尋ねる下りで、「私は胆沢城時代の蝦夷(えぞ)の王者・大墓公(アテルイ)の子孫だと信じていた彼が元気なのがうれしかった」と書いております。
 宮城県登米市迫町佐沼の佐沼城本丸にある「照日権現」は 照井太郎高直の守護神であったようなので、照井姓が“照日”から来ていることは明白であるわけですが、この「照日権現」ははるか九州対馬の阿麻氐留神社の異称とも同じであり、アマテルとは天照国照火明(あまてるくにてるほのあかり)命、すなわち尾張氏の祖神であるとされております。では照井氏、ひいてはアテルイは単純に尾張氏の流れを組むものと考えるべきものでしょうか。
 もちろんその可能性も否定できないとは思いますが、当地に影を残す古代氏族の背景から考えるに少々飛躍感も否めません。
 ここにはやはり物部氏、あるいはオホ氏の影から連想していく方が自然に思われます。
 なにしろ、奈良県の「多神社」の『多神宮注進状』にその因果を十分に連想させる記述があります。
 『注進状』よれば、大宮二座について「珍子賢津日霊(うつのみこ さかつひこ)神尊 皇像(みかた)瓊玉」「天祖賢津日要(あまつおや さかつひめ)神尊 神物(たましろ)円鏡」とあり、裏書きに「大宮二座は河内国の天照大神高座神社と同体異名」とあるようで、どうもその天照大神高座神社を祀るのは尾張氏系であるようです。
 ちなみに、この大宮二座は「日の御子――珍子(うつのみこ)――」とその「母神――天祖(あまつおや)――」であるようです。
 更に、同『注進状』によればオホ神社若宮竹田神社は天照国照火明命を祀り、川辺郷にあり川辺連を祝部とすとあり、オホ神社の祝部の家で対馬のアマテル神社の家伝薬をつくっていることがわかり――大和岩雄さん著『日本古代試論(大和書房)』より――、オホ氏と対馬の阿麻氐留神社とがなんらかの関係があることを想起させられます。
 ちなみに、この対馬こそが天童伝説の中心地であると言われております。天童伝説とはいわば海人系の母子神信仰と根っこが一緒かと思われますが、多神社大宮二座にみられる母子神祭祀には、その影響が濃厚に感じられるのです。
 今、私は多少遠まわしに多神社の照日権現およびアマテルを因果づけましたが、そもそもこの多神社は、三輪山頂上の真西に位置しており、つまり彼岸の日の出が三輪山の頂上から昇るように見える位置に意図的に配されていることが確実と思われるのです。
 つまり、オホ氏が祀る多神社は、あきらかに太陽信仰と密接なのです。