九州の知人に「志ほがま」というお菓子を送りました。
 司馬遼太郎さんの『街道をゆく(朝日新聞社)』にも余談的なエピソードとして登場した落雁にも似たこのお菓子は、もともとは鹽竈神社参拝土産として喜ばれていた「焼き塩」がモデルとなっているようです。塩がさほどに貴重品でもなくなった現在は、一転して甘いお菓子に変身しました。しかし、起源が焼き塩であるだけに、そう言われればなるほど塩を焼き固めたもののように見えます。
 このお菓子を販売している「丹六園」というお店は、鹽竈神社の駐車場に向かう裏道への曲がり角にあり、建物そのものにも風情があるのですが、実はこのほど初めて足を踏み入れてみたのです。過去に何度も食べたことのあるお菓子でしたが、ショーケースの見本を見るに、どうもデザインが二種類あるようで、少々困惑しました。私が見慣れているのはチョコレートのように一口サイズに割りやすくなっているデザインですが、もう一方は鹽竈神社の御社紋を刻印した厳かなもので、どうせならそれを送りたいと思い、店の方に確認しました。すると、それは裏表であって、全て統一デザインであったようです。バチあたりなことに、どうやらこれまでの私は鹽竈様の御社紋に全く気付かず食べていたのでした。
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向かって左が銘菓「志ほがま」の老舗「丹六園」

 さて、その御社紋とは鹽竈神社境内にある有名な「鹽竈桜」をデザイン化したものです。九州の知人にその紋様の由来を説明しているうちに、ものすごいことに気付いてしまいました。そう書くと、さも自分の感性が優れているとでも言いたげに受け取られるかもしれませんが、その全く逆で、正直なところ自己嫌悪な程に自戒しております。何故なら、これまでさんざん鹽竈神社の不思議を追及していたくせに、こんなあからさまなことに全く気がついていなかったからです。
 もったいつけてしまいましたが、鹽竈桜を詠んだものとして有名な堀川天皇御製の一句をとにかくご覧ください。

 あけくれにさぞな愛て見む鹽竈の桜の本に海人のかくれや

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 この詩は鹽竈神社参拝のたびに目に触れていたものでした。しかしこれまでは単に風流としてしか捉えておらず、あまり深く考えていなかったのです。
 しかしどうでしょう。ふと思うに「海人のかくれや」とは一体どういう意味でしょう。まさか子供の隠れんぼよろしく海人族の隠れ家すなわち秘密アジトなどという意味ではないと思います。
 ずばり、これは十中八九“死”を意味する隠語でしょう。
 貴人の死に対し「おかくれになる」という言葉を聞いたことがあると思います。百歩譲って、字義どおり隠れ家だったとしても、隠れる理由があるということは、どちらかといえば反体制側の存在を指すわけであり、その敵方の秘密基地を堀川天皇が認識しているということは、少なくともその時代よりも過去の人物ということになるでしょう。
 それにしても、既に奈良時代には多賀城――朝廷――の御用神社(?)と化していた鹽竈神社を、一体誰が隠れ家にするというのでしょうか。やはりその発想は不自然極まりないのです。
 紀州和歌浦の鹽竈神社にはこの陸奥の鹽竈神社が「はてノ鹽竈」と呼ばれているという伝承がありました。そしてそれは、鹽土老翁(しおつちのおじ)神がこの地で果てられた、すなわち薨去されたことに因んでいるとのことでした。
 それがあったればこそ、私は鹽竈神社に“墓”のイメージを確信したのでした。堀川天皇が詠まれた歌は、鹽土老翁神に対するものであったのでしょうか。
 ところで、堀川天皇とは平安時代とはいえ具体的にどんな時代の天皇であったのでしょう。年表などを見るに1079年に生まれ、1107年に没しております。在位期間で言いますと1086年から1107年までということになります。
 実はこの頃、奥州にとっては忘れられない歴史が重なっているのです。堀川天皇即位の翌年、つまり1087年に「後三年の役」が終わりました。ということは、奥州においてはこの天皇即位とほぼ同時に奥州藤原氏の治世が始まったのです。いずれ堀川天皇の詩は、おそらくそれらの戦争で命を失った奥州人へのレクイエムであったのでしょう。
 それにしても奥州人の鎮魂の象徴が何故「鹽竈神社」に眠る「鹽土老翁神」なのでしょうか。
 そもそも、鹽土老翁と鹽竈神社のつながりの初見は現存しているものでは時代がだいぶ下った江戸時代、伊達綱村による『元禄縁起』であるということのようですので、平安時代に鹽竈大神が鹽土老翁神と認識されていたかどうかは微妙と言わざるを得ません。
 では、滅亡した奥州を代表する存在とは一体誰であったでしょうか。
 これはもうはっきり「安倍氏」でしょう。
 鹽竈社家の阿倍氏が安倍貞任一族と同系であるという確固たる証拠はありません。
 しかし私はこれまでいくとおりかの傍証を重ね、少なくとも単なる憶測や想像ではなく、かなり確実に近いところでそうであろうことを証明してきたつもりです。
 仮にそれを置いたにしても、奥州人の鎮魂に最もふさわしい場所が鹽竈神社であっただろうことは間違いないことと思われます。
 となれば、ここであらためて「桜の本に海人のかくれや」と詠まれた背景に強い意味を帯びて感じられます。この意味するところは鹽竈桜の本(下)、すなわちこの鹽竈神社の境内こそがなんらかの偉大な海人が眠ることころである、あるいは堀川天皇がそう考えていたということなのです。
 堀川天皇が鹽竈まで行幸したかどうかはよくわかりませんが、仮に行幸せずとも、京において遠き奥州鹽竈の桜に思いをはせて詠んだものというのであれば、よほど強い思い入れを抱いていたことは間違いないと思います。
 安倍氏は、その末裔とされる安東水軍にせよ松浦水軍にせよ、十分に海人のイメージを持ち合わせておりました。
 鹽竈神社は安倍氏の墓であったのでしょうか・・・。
 ここに私はあらためて『先代旧事本紀大成経』が語る鹽竈神ナガスネヒコ説に傾倒させられるのです。記紀を見ている限り、ナガスネヒコにはさほどに海人のイメージはありませんが、安倍氏というフィルターを経由するとそうでもなくなってくるのです。
 安倍氏は、“ナガスネヒコの兄アビの末裔”を自称しておりました。私はここにまた鹽竈神社にナガスネヒコ一族の影を感じざるを得ないのです。