磐梯山麓において、徳一の「慧日寺(えにちじ)」以前に根付いていた豊前彦山派の修験は「大伴家」によるものでした。その大伴家が、武烈天皇や継体天皇の御代において人臣中最高の権力者であった大連“大伴金村”らを輩出した一族か否か、という好奇心が芽生えるわけですが、基本的に金村系――仮にそう呼んでおきます――の大伴氏は、淳和天皇――大伴親王――即位を機に、天皇と同じ名を語ることを憚って「伴(とも)氏」を名乗るようになっておりました。
 したがって、仮に会津大伴家の由緒が鎌倉期までしか遡れないものであれば、その時代に“大伴”を名乗っていたのは、金村系ではなく、相模に発生して、その後に豊後国に勢力を広げた「大友氏」の可能性が高いということになります。
 太田亮さんは『姓氏家系大辞典(角川書店)』の中で「思ふに大伴は早く伴姓になりしなれば、後世大伴と云ふは、其の實大友氏ならんか」と想定しております。
 普通に考えれば大伴氏と大友氏は全く別物と考えていいと思うのですが、ここに秦氏というキーワードを介在させてみた場合、少なくとも私には何やら必ずしも別物とも言い切れない思惑が芽生えるのです。
 まず、そもそも大伴氏と秦氏の関係については、例えば出羽三山信仰の蜂子皇子について眺めてみたときから気になっておりました。
 つまり、次のようなことです。
 まず、秦氏と蜂の関係をにおわすものとして、京都太秦の広隆寺があります。聖徳太子のブレーン秦河勝(はたのかわかつ)の「広隆寺」は、古くは「蜂岡寺」と呼ばれておりました。
 一方、豊前国の辛嶋氏――秦氏――の渡来前の故地にも蜂の気配があります。
 彼らは、新羅から渡来した、と伝わる一方、厳密には後に新羅に併合された任那(みまな)エリアから渡来してきた、と考えらるわけですが、なにしろ、『日本書紀』は「任那(みまな)と新羅(しらぎ)」の本性について「蜂と蛇」と表現しており、このことから彼らには十分に“蜂”の性質を疑えるのです。
 そして、ここに大伴氏の面影という一面を重ね合わせてみますと、まず、大伴系に母を持つ出羽三山開祖「蜂子皇子」には、その名に「蜂」の一文字が備わっているわけですが、そればかりか、母「大伴小手子」とその父「大伴糠手――蜂子の母系祖父――」の大伴親子は、京脱出の際、変名として何故か“秦”姓を名乗っているのです。
 また、蜂子皇子ゆかりの羽黒山の信仰について、異伝としてですが、泰澄(たいちょう)――白山信仰の祖・秦氏――による開山であるとも言われております。

 さて、「大友氏」についても簡単に見てみましょう。
 大友氏は、鎌倉時代から戦国時代にかけて豊後――大分県あたり――を中心に北九州の広範に勢力を築いていた一族ですが、元々は相模国に起源があるようです。初代近藤能直が、母系の実家がある相模国大友荘を支配していたことから「大友」を名乗ったということですから、いわゆる古代氏族の大伴氏とは一見無関係に見えます。
 しかしここで私はあることに注目します。
 この初代能直の母の実家が「波多野(はたの)氏」であるということです。一応この波多野氏は、奥州藤原氏同様、藤原秀郷の流れをくむとはされておりますが、実は定かではなく、諸説紛糾しているのです。
 もちろん、私はここに秦氏を疑います。きっかけは「はたの」という訓からの単純な直感でしたが、太田亮さんも『姓氏家系大辞典(角川書店)』の中で「この氏は秀郷流藤原姓と稱すれど、古代秦氏とも関係あらんか」と秦氏との関連を示唆しております。そして次のような興味深い話にも触れております。

――引用――
此の地方には、伽羅子、若くは唐子と稱する神社多し。其の最も著しきは、中郡北秦野村字横野の鎮守にして、神躰は木像なれど、極めて奇なる形なり。傳説に據れば、古へ唐土より飛来せる神なりと云ひ、又同社の境内に安んずる拘留尊佛は明神の垂踏なりと説き、北秦野村字戸川には尊佛松と稱する老松ありて、地名をも尊佛松と稱す。是れ其の地に前尊佛と稱する石像あるを以つて名づくと云ふ。其の他、足柄上郡三廻部には尊佛山観音院あり。何れも石像を以つて表す。(但し塔ケ嶽の拘留尊佛と、大山の石尊とは、今・日本武尊に附會す)。
また石を神体とする風習に就いては、多少縁起を異にすると雖、多くは伽羅国より来れる者なりと傳ふ。

 これらから、大友氏の母系である波多野氏の信仰に、伽羅国のそれが決して無縁ではないことを想定できます。伽羅国とはすなわち「伽耶(かや)」に対する日本側の表記である「加羅」のことと思われます。つまり“任那(みまな)”と同じエリアを指していると思われます。豊前辛嶋氏――秦氏――の“辛(から)”もそもそもその“カラ”から来ておりました。
 私は、大伴氏と大友氏について、秦氏を経由してかなり近い関係を想像しております。