鹽竈大神が長髄彦であると信じたであろう伊達綱村は、賑わいを失っていた塩竈の港町の現状を思い出し、かなり憂いたことでしょう。このまま門前町を衰退させていては長髄彦の怒りに触れかねない、と思ったとしても不思議ではありません。
 少なくとも「どげんかせんといかん」ならぬ「なんじょにかすねげなんね――同義の仙台弁――」と考えたことは間違いありません。何故なら、前に触れたとおり、貞享二年(1685) 、綱村は塩竈村に9ヶ条の特例――経済特区――を発令して、“鹽竈大神鎮座地の繁栄”をはかっているからです。
 そして、その8年後元禄六年(1693)には新たな縁起を制定しました。
 私が興味深いのは、その縁起において別宮祭神に「岐(ふなど・くなど)神」を持ってきたところです。
前に触れた出雲神族の末裔「富當雄さん」によれば、トミノ長髄彦は出雲神族であったといい、本来出雲神族が代々祀る神は「岐神」であるとのことでした。
 仮に鹽竈大神が長髄彦であるとして、それが決して悪の権化ではないと信じていたとしても、朝敵である以上とてもあからさまに祀ることはできません。まして、その論拠となっていた『先代旧事本紀大成経』が偽書になってしまった上では尚更です。
 しかし、岐神であれば、全国あちこちに祀られており、また、長髄彦も祖先神の岐神として呼んでもらえるならばきっと不満ではないでしょう。綱村の苦悩がこの祭神決定に表れているのではないでしょうか。
 さて、綱村はその決定を形にすべく、縁起決定の2年後の元禄八年(1695)には社殿及び配置の大規模な改造にとりかかります。
 その際、いつの頃からか境内に並んでいた只洲(ただす)・貴船社については、社人――在庁官人鎌田氏――の建てた社であることを理由に、他へ遷しました。
 只洲社についてはだいぶ離れた仙台藩領内の別な場所――仙台市泉区加茂・鎌田氏の本拠付近――に遷し、そこに賀茂社を新設しましたが、貴船についてはよくわかっておりません。2~3疑わしい遷座地もありますが、史料としてはどこに行ったのか不明です。実は問題の別宮がそうではないか、という説もあり、興味深いところです。
 ちなみに只洲社――糺社――とは、賀茂御祖社――下鴨社――のことで、玉依媛の父親、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)を祀ります。
 その化身は、神武軍のリベンジに活躍した「八咫烏(やたのからす)」です。つまり、長髄彦の遺恨の敵にあたります。もしかしたら綱村はそれを憂いたのでしょうか。遺恨の敵を近くにおいていたことが、大神の怒りに触れ、家中の乱れを招いたとでも考えたのでしょうか。

仙台市泉区の賀茂神社
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