陸奥国に対する朝廷の政策は、桓武天皇のヒステリックな征夷政策をのぞけば、原則として懐柔政策であったと思われます。蝦夷(えみし)の側にも、朝廷に融和的な集団と敵対的な集団とが混在していたと思われますが、反乱の多くは、伊治公砦麻呂(これはるのきみあざまろ)やアテルイなどの例を除けばほとんどが多賀城の治世に対するアレルギー反応のような単発テロであったと思います。そう考えた場合に、陸奥守「上毛野(かみつけの)氏三代」にふりかかった怪異をどう捉えるかは一つの焦点になりそうです。
 上毛野氏は、「郡山官衙(こおりやまかんが)」――多賀城の前身――も含めた朝廷による初期の陸奥経営を担っておりました。上毛野氏と言えば、関東独立国――ヤマトとは異なる独立した王朝――を築いていたのではないか、とさえ言われるほどの氏族です。群馬県太田市にある東日本最大の天神山古墳を見れば、それだけでこの氏族がただものではないことが伺えます。少なくとも東国を代表する古代氏族であったことは間違いなく、いわば蝦夷(えみし)のエリートと言ってもいい存在です。懐柔策方針のヤマト朝廷から見れば、辺境の最前線に最もふさわしい氏族であったのかもしれません。
イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3
イメージ 4

 ところが、和銅元年(708)初代陸奥守の任についていた上毛野小足(おたり)は、翌年の蝦夷との騒乱のさなか、死亡しております。死因は不明です。
 続く二代目の上毛野安麻呂(やすまろ)はそれなりに蝦夷を鎮定したようですが、いつのまにか歴史上から姿を消し、養老四年(720)、気がつけば“三代目”の上毛野広人(ひろと)の殺害事件の記録が出てきます。
 二代目安麻呂がどこに行ってしまったのかは謎ですが、上毛野氏の陸奥統治は、三者合わせてもわずか12年の間に、突然死、失踪、殺害、といずれも不自然な終焉を余儀なくされているのです。
 異質な名族、上毛野氏の功績が蓄積されることを懸念した朝廷側の陰謀なのか、実際に蝦夷の反乱に巻き込まれたものなのか、はっきりしたことはわかりません。ただ少なくともこの上毛野三代のときに蝦夷が暴れていたことは間違いないようです。つまり、仮に夷をもって夷を制する――懐柔する――作戦だったとすれば失敗であったということでしょう。
 それに比べて、だいぶ後年になりますが延暦元年(782)陸奥按察使(あぜち)――陸奥守の監視役、事実上のトップ――として赴任したあの大伴家持(やかもち)が多賀城の軍事を司っていた3年あまりは、陸奥国は比較的平穏であったようです。わずか3年ではないかと言うなかれ、この3年間は一触即発を懸念された時期のはずなのです。
 そもそも家持の多賀城異動は、伊治公砦麻呂(これはるのきみあざまろ)の反乱が勃発した後、事態の収束経緯が思わしくなかったためのものと考えられるからです――あるいは早良親王と隔離するための左遷だったのかもしれません――。にもかかわらず、陸奥国はことのほか平穏だったのです。
 家持の軍事的采配が超越していたのでしょうか。
 ところが、その家持が具体的に軍事的制圧を加えた記録は特に見当たりません。多賀城における家持の治世の記録としては、迅速な徴兵を目的とした多賀城周辺の人口増加政策――多賀・階上(しなのえ・仙台市泉区あたり)二郡の開設――くらいしかありません。これは不思議なことに思えます。本来であればかなり不穏な情勢時に赴任させられたわけですから、正史に鎮圧の記録が羅列されていてもいいはずなのに、特にそのような記録が見当たらないのです。先の上毛野氏とは実に対照的です。