【第4253回】




死の恐怖、妖怪への畏怖へのようなもの、

皆これわれわれに本来具わる感情であるから、

智的説明によって、これを除去することはできない。

(中略)

森田氏の療法は、よくこの理に基づいて、理論に訴えず、

文字言句を立たせず、人間本然のせいに任せて、

端的に自己本来の面目を体験させるものである。



(p.314「神経衰弱と強迫観念の根治法」

 森田正馬 白揚社 原書1926年)




今日でこのテーマは終了です。


引用を、そして本書を貫く主張は

「思想の矛盾」をやるな

ということに尽きます。


例えば、赤面症で困っているときに

赤面症を直そうとすればするほど

赤面症は定着する、とされていて


私は赤面症である、仕方ない

と自己本来の反応を肯定すると


赤面はなくなっていく、ということです。


死が怖いのに、怖くないと唱えるほど

死の恐怖はフォーカスされ、

その恐怖心が肥大します。


死は来る、怖い、と認めれば、


死の恐怖に、それ以上

フォーカスする理由はなくなるので


生に目を向けることができます。





もっと大きく言えば、


目の前の事実を否定するほど

事実が重くのしかかる


となるでしょうか。


だって、事実は変わらないのですから。


正しく恐怖し、正しく不安になる

そして現実として受け入れ、


自分にできることをしたら

あとはもう仕方ない、


これが正しい態度であり思想だと

僕には思われますが、


社会が脅迫的に、成功や夢や、豊かな暮らしを

これでもか、これでもかと要求するために


人間が思想の矛盾を起こして

現実とは思えないめちゃくちゃなことを

しでかすに至ります。


仮に、誰からも要求がなければ

怖いものは怖いと思うことに

何の制限があるでしょうか。


科学的に、実証的にそれはあり得ない、

ということと、

恐怖心があることは全く違います。


そして、その恐怖心に何らかの

理由や形をつけて、正当に怖がれば

それ以上の問題はありません。


君子危うきに近寄らず、と言い

触らぬ神に祟りなし、と言うでしょう。


それを乗り越えてきた人類史は

人間本来を無視しているがゆえに、


多くの人にとって、強迫症の源泉に

なっています。





よく心理学で示される例えで、


「決して白熊のことだけは考えないで」

と言われると、


白熊がかえって頭に浮かぶ

とされています。


これは直感的によくわかることです。


白熊のことを考えていい、大丈夫、

と言われると、そのうち忘れるでしょう。


それだけのことが、外界から常に邪魔されると

難しくなってしまいます。


これで、このテーマは終了です。


ありがとうございます。