松原照子世見
2020年6月6日(土)


宮本武蔵  
「巌流島の戦い」といえば、佐々木小次郎との戦いで有名な大剣豪・宮本武蔵。
どうやら武蔵は、巌流島で死闘後、殆ど他流試合は行わなかったと言われています。
武蔵にとって小次郎との戦いは、人生観をも変える出来事だったのでしょうか。
宮本武蔵の『五輪書』では、小次郎との死闘に関しては一切記述がないということにも興味が湧いて来ます。
吉川英治の小説『宮本武蔵』では、小次郎との戦いがクライマックスで、その後の武蔵は書かれていません。
巌流島の戦いは1612年4月13日といわれる説があり、おそらくそのように思われます。
この時、武蔵29才。
この巌流島の戦いの後、33年も生きた武蔵ですが、仕官先には困ったようです。
戦国時代であれば、武蔵のような風貌でも仕官先もあったのでしょうが、武蔵の容貌が凄かった。
身長は身の丈6尺、今に直すと182cm。当時なら巨人です。
それだけではありません。
風呂に入ることをしなかったのが武蔵ですから、想像がつく容貌です。
武蔵は猛者との試合でも一度も敗けたことがないのですから、武蔵の名は天下に轟いていたはずです。なのに仕官先が見付からなかったのです。
それでも、武蔵の活躍場所はありました。
大阪の陣です。
ただ、どちら側で戦ったかは定かではありません。
晩年まで仕官先を探し続けた武蔵でしたが、肥後熊本藩で細川忠利の庇護を受けることになり、『兵法三十五箇条』の執筆に取り掛かったのです。
書が完成した翌日に忠利はこの世を去ります。
そして武蔵は、霊厳洞に於いて『兵法三十五箇条』を元に『五輪書』を書き上げたのです。武蔵が亡くなる2年前のことでした。
武蔵の人生を見る限り、人は最後まで何が起きるかわかりません。
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