松原照子世見
2020年2月7日(金)


光秀と天海僧正  

大河ドラマ「麒麟がくる」をご覧の方も多いことでしょう。
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大河ドラマ大好きな松原照子さん。
今日も歴史感想文のはじまり、はじまり…

明智光秀は本能寺の変の後も生き延びて、天海になったと言われる俗説もありますが、真実ならとても面白いお話です。
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結局、
何もわからない、予知能力者、透視能力者…

光秀の血を継ぐ者といえば、煕子との間に生まれたと言われる3男4女。
光秀の子らは、光秀が敗れた後、どの様な生き方をしたのでしょう。
このことにも興味を持ちますが、やはり天海僧正が気になります。
天海僧正は天台宗の僧侶。
山﨑の戦い以降から天海の活躍が見られますし、日光東照宮には明智家の家紋である桔梗が描かれていると聞いたことがあります。
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テレビでしていましたし…有名な話しです。

徳川家康の最も晩年に召されたと言われていますが、謎多き人物が南光坊天海僧正。
天海僧正は秀忠、家光からも愛され、長寿だったとも伝えられているのです。
夏のことです。
上野の東叡山寛永寺で死の床に就くことになった天海。
この寛永寺は自らが開山した寺で、天海のラストシーンは見事だったと伝えられています。
天海は高弟達を枕辺へ呼び、天台の奥儀を口授し筆記させ、それを事細かに校閲し、それを家光の元へと届けさせます。次の日の昼頃、天海は口をすすぎ、手を洗って、弟子に手伝わせて新しい衣服に着替え、法衣を纏い威儀を正します。数珠を手に経文を唱え、弟子達全員に最後の指導をした後、片足をもう一方の脚の腿の上に組む半跏趺座のまま崩れることなく、天海僧正は微笑みを浮かべながら旅立ったと言い伝えられています。
天海僧正は1536年頃生まれたと言われていますが、光秀はと言いますと1528年が一般的に生まれた年になっています。
本能寺の変が1582年6月2日、天海46歳、光秀54歳。
サテ真実は如何に。
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ね…
歴史を書き並べただけ…
信実は何ひとつとして、わからず…(笑)