松原照子世見 2018年10月6日(土)

ペリー来航~幕府転覆  
1853年の6月3日、江戸城下は大混乱だったといいます。
そりゃそうでしょう。
江戸湾に開国を求めて、親書の受理を迫るペリーがやって来たのですから。
江戸湾侵入を防ごうとしたのは勿論なのですが、ペリーの軍艦の威力に圧倒されたのでしょう。
井伊家は、藩兵二千人を動員して警備にあたったのですが、残念な結果となりました。
久里浜で幕府代表に親書を渡したペリーは、翌年再来航することを告げ、江戸湾を去って行ったのです。
現在の世田谷と当時の世田谷の風景は、随分と違っていました。
大森には井伊家を警備に、又、品川では新たに砲台を造りました。
このペリー来航は、従来の幕政を担って来た諸大名と幕臣団の結束を崩れさせたのでした。
このことが、後の明治維新を生むことになるとは、誰も思わなかったことでしょう。
このことが起きる前までは、外様大名達は幕政には口を出せませんでした。
ところが、アメリカ大統領から将軍に宛てた国書をどうしたものかと思案した結果、薩摩藩や長州藩といった外様大名までに意見を求めるべく提示したのです。


幕府の狙いは、挙国一致団結だったのかもしれません。
この時、幕府転覆が始まったのです。
朝廷にもペリー来航を報告、意見を聞いたともいいます。
朝廷の政治関与を認めた幕府に、朝廷を介して幕政に入ろうとする諸藩の動きが活発化していくのです。
こうしてみると、幕府内の“鎖国から開国への外交政策”を考え過ぎたことが命取りになったように思うのです。
↑↑
なんなんでしょうね…

災害が心配~世見か、
教科書レベルの歴史を書き並べての松原照子の感想文…(^◇^;)