前回の記事ではお別れ会のあらましをまとめましたが

このような形式を決めた経緯をまとめてみました。




母の病状が悪化する中で

本人の希望や家族の意思として


緩和ケア、水分点滴、酸素補給以外の

延命処置はとらない


そして自宅で自然死を迎え

その流れで自宅で自然な形での葬儀を


ということを話し合いました。




母には少しでも長く生きて欲しいと思いつつ

日に日に痛みと苦しさが増す中で


どんな形でも生きてさえいてくれれば・・・

という考えを、わたしは到底持てませんでした。



残された時間を少しでも痛みがなく

家族や周囲の人に囲まれて

快適に心穏やかに過ごすことができれば・・・


自分が後で後悔することが無いように

今できる精一杯のことをしようという気持ちでした。




また、読書家の父は母の入院以来

癌治療の関連書に始まり緩和ケア、自宅介護

料理や食材、自宅介護、自宅での看取りなどなど

様々な情報を集め

「Xデイプラン」と「やることリスト」を作成。



「Xデイプラン」は最期の迎え方に対する

父の提案で、それを基に家族で話し合いをしました。


「やることリスト」は母の死亡確認後に行うこと

葬儀会社への連絡

友人・知人への連絡

近所への挨拶回り

駐車場の確保 


などの項目出しがされていました。

この事前準備があったので、当日はひとつずつチェックして

漏れの無いように進めることができました。



2年前に母が入院した際には仕事の後に毎日病院に通い

母が自宅療養になってからは

訪問看護士やヘルパーさんに助けられながらも

24時間母に付きっきりだった父。


ずっと母に寄り添い、最期は自宅で母を看取る・・・



その流れの中で、父は葬儀社や特定の宗派に

進行されるような葬儀は絶対嫌だという考えでした。


最後の最後まで自分の手で幕を下ろしたいと。



わたしも一般の葬儀に参加するたびに

祭壇の横に座り参列者に何度も何度も

お辞儀を繰り返す親族の姿に

以前から違和感を覚えていました。


だから、父の想いを実現するために

協力したいと心から思えました。


そして、66年間お世話になった友人・知人の方が

時間に縛られずお別れしやすいように

「24時間」という幅のある時間設定にしました。


そんな経緯で決まった「24時間お別れ会」。


裏方は終始バタバタでした。


◇会場の和室はもともと母の病室だったので

 まずは電動ベッドの解体&撤去。


◇掃除をして物を運び出してカーペットを敷く。


◇親族が集まるリビングの掃除。


◇本とDVDに埋もれた父の部屋から荷物を

(ダンボール約50箱分)

ガレージに運び出し睡眠場所の確保。


◇親族を中心に訃報を聞いて駆けつけた方への対応。


◇飲み物・食べ物の調達。


◇スライドショーDVDの作成


◇会葬御礼の文章や母の年表などの原稿チェック&印刷。


夜中の4時半にやっと全ての準備が完了。




朝8時から24時間お別れ会が開始。


8時には既に玄関先に行列ができていました。



当日は、


◆受付


◆会葬お礼文書の封入


◆会葬お礼の品の補充


◆親族や親しい方への対応

(お茶だしなど)


◆駐車場への誘導



これら全てを家族でこなしました。

この合間に友人とメールで連絡を取り合ったり

お別れ会に来た方から母の話を聞いたり



予想より会葬者が多くて

途中で葬儀会社に連絡してお礼の品を補充したり

お礼文書を追加印刷したり



常にバタバタしていたので

たまにわたしの友人が来てくれると

いろいろお話をして外までお見送りをして

気分転換しました。





常に周囲に気を配っていたので

あまり悲しむ余裕もなかったけれど


母の小学校の同級生の方が


「お母様は素敵な方だった。

みんなの憧れの的だった。」


というような話を聞いたりすると

何度も何度も涙が出ました。



わたしは玄関先で受付をすることが多かったので

「受付くらいは家族以外の人に頼めばよかった」

と最初の頃は思いましたが


顔なじみの近所の方

面識の無い方などいろいろな方がみえる中で


一人一人にご挨拶をしたり

父の手がいっぱいの時は

代わりにお話を聞いたりできました。


受付までこなすことで

暑い中来てくれた方に

礼を尽くせたかなとも思いました。



父をはじめ、兄弟4人がそれぞれに役割を果たしました。

また、義姉やパパの果たした役割も大きかったです。



こんな形で母の「お別れ会」が執り行われ

終わる頃にはかなりの達成感を感じました。