葬儀はその方法で古くから土葬・埋葬が中心でした。火葬

は奈良時代に身分の高い人々によって行われました。

火葬が普及したのは江戸時代末期から明治になってからで

す。眞養寺の寺の墓も200坪もあり,歴代の寺族の遺体が

埋葬されていました。

 

明治以降,衛生観念の発達により,特に疫病対策として火

葬が広がりましたが,火葬技術と設備が整わず,一時は禁

止されました。これは廃仏毀釈と関係があります。

 

火葬技術や設備が整い本格的に火葬が普及したは大正時代

と言われます。現在はほほ100%火葬です。しかも全国的

に公営施設です。一部例外として民営火葬場が東京23区内

にあります。これも7火葬場です。23区内は火葬場が9カ所

しかなく公営は2か所です。多死化社会では大混雑です。 

 

我が宗派、真宗大谷派の葬儀は、まずご自宅のお仏壇の前

で出棺の勤行、参列者が葬列を組んで火葬場へ向かいまし

た。そこで納棺され土の平釜に遺体を置きその前に野卓を

置き、お勤めをし、葬場勤行を勤めました。

 

野での送りは会館での送りと異なり夏の酷暑,冬の極寒に

耐え,自治会の組の仲間が葬儀を担いました。読経が済み

言い伝えられた火葬技術を駆使して荼毘ふされました。

この煙やにおいを嫌がる傾向も強く,また火葬技術の伝承

がうまくいかず,公営火葬場は普及しました。

 

『出棺勤行』

ご自宅の仏壇の前で勤める最後の勤行。現在はなくなりつ

つあります。葬儀会館での葬儀はこの『出棺勤行』を省き

葬場勤行からはじまることも多くなりました。」

 

『野辺の送り』

自治会の仲間が野卓を持ち,その後ろに親族係累の女性が

並び,野の法名,遺影を遺族が待ち,更に香炉などの仏具

を持ち列を作りました。その後ろに大八車に乗った棺が続

き,その間の両脇には前持ち,添え持ち,後ろ持ちなどの

飾り,つまり納棺された遺体を護る飾りを持ちました。

 

棺の後ろには僧侶,遺族の男たちが続きました。そして最

後尾には遺族,親戚係累に男たちがつづき,最後に参列者

の列ができました。参列者の多い葬儀では棺の出る家から

火葬場まで途切れることはありませんでした。

 

『葬場勤行』今は,葬儀会館で行われます。昭和55年頃か

ら会館での葬儀は増えました。形も変わりました。寒さも

暑さもなくなり,快適な環境で送りができるようになりま

した。

 

同時に家から棺を出す「内上戸?ウチジョウコ」から会館

での「外上戸?ソトジョウコ」に変化しました。その分参

列者は減り,送りのイメージは変わりました。

 

『葬儀次第』葬儀の一般的な現在の形

(1)家族、親族、参列者着座

(2)導師入場

(3)開式の辞、一同合掌

(4)棺前勤行(出棺勤行)・葬場勤行

(5)一同合掌、閉式の辞

(6)導師退場

 

勤行中、喪主、ご家族、親族、近親者の順に焼香をします。

 

現在ではご家族、親族のみの家族葬が主流となりましたが、

以前は地域内での相互扶助として葬儀が進められていまし

た。野辺の送りほど一緒に暮らした人々とその風景の中で

人との別れを実感できました。

 

人生の最大の勉強である「死の共有」が可能であり,死者

の見える風景がありました。自分もこのように旅立つのだ

と言う思いは人への優しさを育て,懸命に生きることを教

えました。葬儀の意味を再度確認することが私たちの課題

です。

 

参考:『仏事ひとくちメモ 改訂版 通夜・葬儀編』

    真宗大谷派 東本願寺「真宗会館」

 

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