生成AIからの警告 | 王様の耳は驢馬の耳

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言いたくても言えないことをここで言ってやる。

 突然、chat(チャット)GPTなるものがメディアを賑わせた。おそらく機能の高くなったchatGPT4が公開されたからであろう。chatGPTはGPTという人工知能を搭載した対話型人工知能のひとつであってOpenAI社が提供するものである。chatGPTのように人間と対話しながら何らかの知見を示してくれるものをGenerative(生成力のある)AIと呼ぶのが妥当なので、以下生成AIと呼ぶことにする。
 今、メディアで騒がれているchatGPTとはOpenAI社が開発した生成AIである。生成AIにはchatGPTだけではなく、BingAI、perplexityAI、Bard、Midjourney、Stable Diffusion等、開発者や用途によっていろいろある。chatGPTがすべてなのではなく、生成AIの一つに過ぎない。今後はあらゆる場面でいろいろなタイプの生成AIが語りかけてくることがあたりまえになってくるだろう。それを押しとどめることはできないし、そのレベルでの批判や非難は建設的ではないのでやめた方がいい。
 ただ、確認しておくべきことは、生成AIはまずAIに厖大なデータを学習させているということである。そして、どういうデータを学習させたかは「企業秘密」である。これは生成AIと会話していると徐々にわかってくる。
 よく、生成AIがまちがった発言をしていることを指摘して勝ち誇ったかのような発言をしている人を見かける。ある大臣クラスの政治家が「自分は衆議院議員なのに参議院議員だと説明された」と言っていたが、それはまだいい。僕の親しい教育学者は、明治から大正期に活躍した教育者で自由教育を提唱したとされ、もっともらしい著作のタイトルが列挙された上に、あろうことか私生活では芥川龍之介の妻と不倫関係に陥り、子までなした、と説明されてしまった。しかもその子の実名(?)まで書き出してくれたのである。これには爆笑してしまったが、まさに翌日、このような私生活については一切反応しなくなった。おそらく何らかの指示が人間によってなされたのであろう。
 こうした誤情報を平然と語るしくみに「非常に話し上手な『知ったかぶりの人物』と話しをしているような感じです」(太田邦史東京大学教育・情報担当理事「生成系AI(ChatGPT, BingAI, Bard, Midjourney, Stable Diffusion等)について」https://utelecon.adm.u-tokyo.ac.jp/docs/20230403-generative-ai)という識者の感想が出ている。太田氏は「その後精度は上がっている」とは言っているが、「知ったかぶり」であるというこいつの性格は変わることはない。知ったかぶりは〈知〉の内容に責任を持たないAIの基本構造だからだ。そして、このことは生成AIについて考えるときに重大なポイントの一つである。
 生成AIの特徴は膨大なデータを学習してその成果をもとに人間と対話するということだ。以下、その対話を時折参照しつつ説明していこうと思うが、対話なので毎回同じ答えが機械的に返ってくるわけではない。そのあたりも対話型である特徴であり、興味深いところでもある。BingAIなどは問い詰められると、「ちがう話題にしましょう」などと話をそらしたり、一方的に打ち切ったりする。その辺りに奇妙な親近感を感じることはある。
 で、まずはAI自身の学習について「AIにおける学習とはどういう意味か」と問うてみた。chatGPTの答えは「AI(人工知能)における学習とは、データや経験を通じて知識やパターンを獲得し、それに基づいて新しい状況や問題に対処できるようになるプロセスを指します。この学習プロセスは、一般的に「機械学習(Machine Learning)」と呼ばれる手法を用いて行われます。」と言う。
 それは過去問を繰り返し練習する受験勉強のやり方とよく似ている気がするので、そのように問うてみた。そうするとchatGPTは「AIの学習プロセスは受験勉強における学習と一部似ている点があります。どちらも、知識やパターンを獲得し、新しい状況や問題に対処できるようになることを目指しています。例えば、教師あり学習は、受験勉強で過去問を解くことに似ています。過去問を解くことで、試験で出題される問題のパターンや解き方を学び、新しい問題に対処できるようになります。」と回答してきた。
 先般聞いたところでは、とある地域の中学校三年の三学期にはほぼ授業らしきことは行われていないらしい。代わりに入試対策のためのドリルをひたすらやらせているということだ。この教員たちにとっての授業がこのようなものだとしたら教職などは生成AIに取って代わられ、教員の仕事は今の仕事量から授業を除いたものになるだろう。まさに教員の働き方改革に貢献してくれるのかもしれない。
 ところで、五月二十六日に政府のAI戦略会議は「論点整理」をまとめた。この会議はたった二回の会合で論点をまとめたというから、熟慮を重ねた「論点整理」とは言えないのかもしれない。とは言え、この文書の中で示された「懸念されるリスクの具体例と対応」を見てみよう。
  ①機密情報の漏洩や個人情報の不適切な利用のリスク
  ②犯罪の巧妙化・容易化につながるリスク
  ③偽情報による社会の不安定化・混乱させるリスク
  ④サイバー攻撃が巧妙化するリスク
  ⑤教育現場における生成AIの扱い
  ⑥著作権侵害のリスク
  ⑦AIによって失業者が増えるリスク
 で、五番目の教育現場について考えてみる。教育現場では「生成AIが宿題に使われ適切な評価が損なわれる、また作文やレポートに生成AIを使うことで生徒・児童の創造力等が低下する懸念がある」ということだ。要はレポートを生成AIに書いてもらうというやつだ。実はこれまでもインターネット上にある文章からの引き写し=パクリというのはかなりあった。その意味ではパクリ行為がより便利なツールを得たことによって若干進歩したに過ぎない。教育上の問題としては「いまさら」の問題なのである。自分のレポートは自分の頭で考えて自分の手で書けということを今まで以上に徹底させることなのだが・・・。
 この傾向はネット検索の普及や生成AIの所為というより、現在の学校での学びのあり方に問題があると言えよう。まずは学校における試験という制度の持っている悪弊でもある。試験にカンニングが付き物であったのは試験制度が合格・及第・進級・進学・就職というゴールを持つがゆえである。それがインターネットの発達や生成AIの登場によって少数派から多数派へと移り変わろうとしているだけである。そこに〈教育〉が不足していたことを思い知るべきである。
 AIの学習と人間の学習との違いについてBingAIに問うたところ、「AIは目的や効率を重視して学習するのに対し、人間は感情や想像力などを持って学習するという点」が異なると返してきた。ここで言う「目的や効率」は受験と受験勉強のことと考えればいい。そこには「感情や想像力など」は無用だというAIのスタンスがある。
 昨今では受験というものが子どもたち自身の問題と言うより親や教師の問題になってしまっているのではないか。大学教員の経験から来る実感でしかないが、学生たちの進路選択が自分の意思より親や教師の意見に左右される傾向が強くなってきているようだ。親や教師の関心は元は子どもの人生を豊かなものにしたいというところにあるのだろうと思う。しかし、そのための手段としてゲームのようにいくつものイベントをクリアしなくてはならない。その大きなものが進学であったり、就職になる。そして、進学なり就職のための対策が本人以上に親や教師にとって重要事項となってくる。かつてある学校の校内研修で「学力」について話したことがある。歴史的に日本の学力は子どもの現実から離れ、点数主義に傾斜してきたという内容だったと思う。その内容に不満だったのか、最後に校長が「それでも、被差別部落の子どもたちをとにかく高校に入れる学力は必要ですね」とまとめてしまった。同和教育に熱心な校長ですら学校での学びを進学のための手段としてしか考えていなかったことに少なからずショックを受けた。この校長にとって学力は進学のために消費される使い捨ての商品=消費物という認識であり、そうした消費物を学びから疎外されがちな被差別部落の子どもたちに与えることが子どもたちへの支援だと考えていたことに驚いたのである。「解放の学力」などというものが同和教育の中で論じられていたころであったが、そういう「理想論」より現実のイベントクリアを選ぶのが学校現場だったのだ。
 前述の入試対策にドリルばかりさせるのがそうした学力観の典型であろう。かくして、子どもたちは学校で学ぶ〈知〉を単に学期ごとの試験をクリアし、入学試験をクリアするための情報や技巧といった消費物に貶めることになる。子どもたちの学びは人生の血肉になるものではなく、ひたすら消費されていくものと化している。血肉になるはずの青春時代の努力や経験もガクチカ(学生時代に力を入れたこと)という隠語になった段階で一片の消費物となってしまった。
 たとえば人物を見極めようと面接をしても受験生はそろって覚えてきた文字列を暗唱するだけだ。対話にならないのだ。この段階で知ったかぶりでも対話ができる生成AIに軍配は上がる。
 消費物であるから、子どもたちにとって学びは生身の自分とは無縁のものでしかない。学びに向き合う自らの主体というものは無いか限りなく薄いものになる。当然〈知〉を内面化する必要はないから、自分の頭を使ってレポートを作成する必要はない。その場をクリアできる文字列があればいい。だから、平然とパクりをおこなうのである。だからいくら自分の頭で考えて、自分の手で書けと指導しても、消費物以上の意味を教わっていないのだから子どもたちは、いや学生も、国民も〈知〉を使い捨てるのである。
 BingAIにこのことを問うと「AIは、そのデータやルールの意味や背景を理解することはできません。AIは、その分野における問題を解決するために学習しますが、その分野に対する興味や好奇心を持つことはできません。」「AIは、データやルールを数値や記号として処理することはできますが、それらが何を表しているのか、どのような文化や歴史や社会に関係しているのかを理解することはできません。AIは、問題を解決するために学習することはできますが、その問題に対して感情的な関心や知的な探究心を持つことはできません。」と返ってくる。生成AIは自らが人間になれないことを知っている。
 しかし、興味、好奇心、文化的歴史的社会的背景の理解、感情的関心、知的探究心・・・こうしたものを学校教育の現場に取り戻さなければ人間らしさは失われ、生成AI以下の存在に堕ちていくだろう。現代的人間疎外とはこういうことなのではないか。