小さな駐車場です。一軒家があった所を駐車場にしたのでしょうか。三台しか入りません。車の中でこっそり服を脱ぎました。全てがフロントファスナーですから、車の中でも容易に全裸になることが出来ました。周囲に人が来る様子はありません。でも、車ですから、一度、外に出たら、誰れもいないときにしか、もどることが出来ません。もし、駐車場に別の車が入って来て、その運転手が車の中で電話でもはじめてしまったら、もう、私は車にもどることが出来ません。
 そっと車を降りました。全裸のまま外を歩くのは久しぶりでした。緊張で身体が震えました。寒さではありません、緊張でした。
 車を入れた方向と反対側にはマンションが並んでいて、そのマンションの間には、人以外は自転車でさえ通り抜けられないような細い抜け道があります。
 私はそこに身を隠しました。身を隠したと言っても、人がそこに来れば、かんたんに見つかってしまいます。こんな時間のこんな場所に人が来るはずがない、それだけしか考えませんでした。
 通りがあり、その向こうには、大きな駐車場があります。こちらは月極の駐車場です。百台以上は入るのではないでしょうか。深夜ということで、車はぎっしりと並んでいます。
 その車の中に乗っている人がいないなんて確信は私にはありません。でも、私は通りを渡り、駐車場に入りました。車の間を走り抜け、とにかく一番奥まで行こうと思いました。その間は隠れてはいけない、何があっても、しゃがまないと、そう決めていまいた。私の露出は、決めたことを、とにかく守るのです。誰れに責められるわけでもないのに、本当に不思議です。
 駐車場の奥にはファンスがあり、その向こうは裏路地です。フェンスを乗り越えて中に入って来ることは出来ないでしょう。でも、人が通れば私は全てを晒さなければなりません。奥まで行ったところで、安心して身を隠すことの出来る場所があるわけではないのです。
 それでも私はフェンスまで行き着きました。フェンスに全裸の身体を密着させると、冷たい網の感触が私の身体を心地よく愛撫しました。
 駐車場の入り口がはるか遠くに見えます。急に怖くなって、他人の車の陰に身を隠しました。他人の車の陰は不安です。その持ち主が、いつ現れないともかぎらないからです。
 全裸のまま膝を抱えてじっとしていました。自分のおっぱいが暖かく心地良いのです。お尻に抜けていく冷たい空気も心地の良いものでした。
 私はお尻をフェンスに密着させてみました。お尻の両頬を割り、つぼみの部分が広がるほど強くフェンスに押し付けました。もし、誰れかがその気になれば、お尻を犯されてしまうことでしょう。悪戯で何か異物を挿入されてしまうかもしれません。
「このまま三分はガマンする」と、心に近いました。時計は持っています。じっと、針を見つめました。フェンスの向こうに人の気配があっても、駐車場に入って来る車があっても、その三分だけは絶対に動かない、と、勝手に一人で決めました。本当にそうしたかどうかは分かりません。
 三分が過ぎると、私は、来たときとは違い、車の陰をしゃがみながら、慎重にもどりました。
 通りにさしかかったところで、車が一台通過し、私を驚かせましたが、誰れにも見られることなく車にもどることが出来ました。しばらく興奮でハンドルを握ることが出来ませんでした。
 今はもう見なくなった和式トイレでしかも共用。私にとって貴重なそのトイレは、すこし郊外にあります。前回、訪れたのは三ヶ月以上前になります。もしかしたら、喫茶店がなくなっているかもしれない。もしかしたら、トイレが男女別にされているかもしれない、と、不安でした。
 そうしたお店が少なくないからです。
 お店はそのままでした。郊外とはいえ駅前です。サラリーマンらしい人がたくさんいます。
 様子を伺って私はトイレに行きます。個室のカギをかけ忘れるためのトイレです。真後ろから見られます。アソコだけでなく、もっとも恥ずかしいお尻の穴も見られてしまいます。
 私のお尻には毛がありません。全体に毛は少ないほうなのだと思います。でも、毛がないからこそ、私のお尻の穴は、しっかりと露出しているのです。恥ずかしいほどはっきりと見えます。よーく見ると、少し色あせしているようにも見えます。
 そこを見られるのが何よりも恥ずかしいのです。
 お尻は、一番、そそうしてはいけないところだからです。そして、たとえ赤ちゃんでも、そそうした時にしか、そこまでは見られない、と、私には、そんな錯覚があるのです。オシッコも漏らせば、拭かれるのでしょう。でも、ウンチを漏らしたら、たんねんに拭かれてしまう、そんな意識があるのです。それゆえに、私は、お尻の穴を見られるのが一番恥ずかしいことだという思いがあるのです。
 トイレにしゃがんでお尻を出して、しばらく、じっと待ちました。でも、誰れも入って来る様子がありません。あまり長く中にいるのは、また、違った意味で恥ずかしいので、外に出ます。二度、行くのも恥ずかしいので出来ません。
 そうして、何もないまま私は店を出ます。実は、何かが起こるのは、ものすごく少ないのです。ただ、いつもは、何もないと、それは書きません。このブログに書かれないことは、書かれたことの何倍もあります。見てもらうなんて、かんたんそうですが、実は、そうそうないものなのです。

 真美さんの言うことは、本当にそうですよね。私も女性だけが、何故、という気持ちがあります。でも、私には、自分のその部分を文字や声に出して表現することが出来ません。単純にものすごく恥ずかしいのです。そして、私にとっては、ものすごく恥ずかしい場所だからこそ、ものすごく嫌らしい場所でもあります。
 まさに男社会の思惑通りと言われると、悔しくもありますが、そうと分かったところで、どうにもならないところがあります。オチンチンとは書けるのに、ペニスとも書けるのに、キンタマとは書き難いのです。同じようにヴァギナとは平気で書けますね。そこには、幼児期から刷り込まれてしまった何かの影響があるのだと思います。オチンチンは子供でも使いますが、それに対抗する女の子の名称はありませんでした。ペニスと私が覚えたときには、それに対抗してヴァギナという言葉がありました。封印されているのが「キンタマ」と「オマンコ」なのだと思います。
 確かにおかしいですよね。でも、羞恥の問題なので、すぐには直せないと思います。
 出来れば、女の子、とくに子供のアソコの愛称のようなものが作れるといいですよね。私の知り合いの母親は、自分の娘に「オマンマン」と、言わせていましたが、私は思わず赤面してしまいました。
 一説によれば、子供の頃からスケベだった女ほど、その部分を「オマンコ」と、呼ぶのに抵抗を持っているということです。本当かどうかは分かりません。
 深夜に自分のその部分を晒している女が、たかがブログで「オマンコ」と、書くことをためらうって、おかしいですよね。でも、これはカマトトでもなんでもなく、正直な私の印象なのです。心象かもしれません。


 アソコとアナルの話しは、また、書きますね。

 これって、意外なほど私にとって重要な話しなんです。ちなみに、私は恥ずかしいのはアナルで、見せたいのもアナルです。

 アソコを鏡に写す話が、こんなに盛り上がるとは、思いませんでした。こんな変態はさすがに自分だけで、こんなことは変態と自称する人たちの中でさえ、ひかれてしまうのでは、と、考えていました。意外と、皆も同じなんですね。

 コメントを返し、ここに書きたいこともあるのですが、今夜は疲れているので、またにします。


 私は自分のアソコがいつ、こんな形状になってしまったのか、記憶にありません。気がついたときにはグロテスクでした。私も、その変化に気がつきたかったです。出来れば、子供の頃から、一年ごとに写真で記録しておきたかったです。

 私は特別にスケベだったからでしょうか。もし、気楽に女の子とワイ談が出来るなら、聞きたい話がいくつもありました。一番、聞きたかったのは、自分のアソコを鏡で見たことがあるかでした。好奇心とかではなく、オナニーの対象として見るという経験です。私はよく見ていました。今でも、自分のアソコを鏡に写してオナニーすることがあるほどです。もちろん、自分のアソコの形状に興奮しているわけではありません。これを男の人が見たらどう思うのだろう。嫌らしいアソコだと思うのか、それとも、ただ、条件反射のように興奮してしまうのか、と、そんなことを妄想してオナニーするのです。
 オナニーしている時に、その指を舐めたことがあるかという話もしてみたいですね。それも、どんな味なのかな、と、そんな女の子っぽい気持ちではなく、妄想として舐めるのです。私は、アソコが濡れているということを確認されることを、まずは妄想します。そして、それを私にも確認させるために、男の人が私の嫌らしい液のついた自分の指を私に舐めさせるという妄想をします。そして、その妄想で、自分の指を舐めたりするのです。それも、相手はまったく知らない人です。
 そんな妄想、現実、いろいろなワイ談がしたいんです。男の人とではなく、女の子だけで、おもいっきりやってみたいんです。でも、こんなこと思うのは私だけなのかな。
 ほんの少しだけ、マンションの外まで、向かいにある駐車場まで、そこにある自販機で何かを買うだけ。そんなことを私は入浴の度に考えています。そして、たいていは、その考えは入浴中になくなります。
 全裸で外に行く、それをしている時はいいのです。興奮していますし、感じています。満たされているのです。でも、しばらくして冷静な自分にもどると、激しい自己嫌悪と恐怖に襲われることになるのです。
 恐怖というのは、目撃されたかもしれないという妄想です。興奮している時には、同じ妄想が脅されて、もっと嫌らしい行為をさせられてしまう、というものになります。
 しかし、同じ妄想なのに、冷静になってからは、近所の主婦が大声で怒鳴りこんで来るとか、お金を強請られてしまうとか、性的でない恐怖妄想に変わるのです。
 そして、私は自己嫌悪します。どうして私は普通に恋愛をしないのかと悩むのです。
 SMマニアの方なら分かります。プレイの果てには恋愛があるかもしれないからです。でも、露出するだけの私にはそんな可能性はないのです。ビクビクと脅え、コソコソと隠れなければなりません。露出の向こう側に幸福はありません。
 M女の方が苦痛や羞恥の後に、褒めて、可愛がられるのがいい、と書いていたのを読んだことがあります。私には、そうした結果はありません。快楽にしても、部屋の中で安全にオナニーする以上の快楽があるはずがないのです。
 裸を見せてお金をもらうことも出来るのに、それでは私は満足出来ないのです。
 不安と恐怖と自己嫌悪の前のつかの間の快感。それだけを求めているからです。セックスがなかったわけではありません。恋愛のような経験もしています。でも、私は愛せないし、セックスでは感じることが出来なかったのです。
 外に出たい。全裸を晒したい。そう考えて、湯舟を出ます。たくさん暖まると、逆に外には出られなくなります。身体は暖かく外に出るにはちょうどいいのですが、疲れきってしまうからです。そうして私の冬は終わるのかもしれません。
 いつか書きたいと思っていたのですが、私にとっての、オチンチンは遠くにあって愛でるものですね。
 遠くにあるオチンチンは実は、小さくて、包茎が好きです。もし、何かのパーティとか、あるいは、サトリさんの3Pのような体験をするなら、大きなオチンチンが好きかもしれません。
 でも、たとえば、外で見せられるなら、小さいほうがいいのです。小さいと、なんとなく安心出来るからです。しかも、小さいと、まだ、未成熟な印象もあるからいいのです。きっと、私はどこかで、本当に幼かった頃に見たオチンチンを見たがっているのでしょうね。子供にアソコを見せたいと考えてしまったり、子供のオチンチンを見たいと思うのも、そうした理由からなのではないでしょうか。
「小さいね、そんなに小さいのに、ビンビンに勃ってるなんて、ものすごーく、生意気だと思わない。セックスしたって、女の人には、物足りないものなのに、どうして、そんなに頑張って勃起させてるの。役に立たないんだから、勃起なんかしたって意味なんかないでしょう」
 そんなことを言ってみたいですね。
 そんなことを言われると男の人は傷つくでしょう。そして、オチンチンも小さくなってしまうんです。
「どうしたの、元気なくなったの。ショックだった、可哀想ね。それじゃあ、大きくなるように、お姉さんがアソコを見せてあげる。でも、どうせ役に立たないんだから、前はだめよ、お尻だけ、でも、お尻の穴の汚いところは、たっぷり見ていいのよ。見たいの」
 と、アソコを手で隠して、お尻の穴を見せます。そんなところを見て、勃起してしまうオチンチンが私は好きなのです。見せてあげないと言いながら、私はサービスでアソコも見せてあげます。
 書いていて、ちょっと興奮してきました。
 この世界は「あり」かもしれませんね。
 問題は大きい小さい、太い細いが、けっこういいかげんだというところです。この人のは大きい、とか、この人の小さい、とは思うんですよ。でも、じゃあ、あのとき見たオチンチンと比べて、と、思うと、覚えてないんです。思い出せないというほうが正しいかもしれません。貶したり、こけおろしたり出来るほど、オチンチンのことを正確には記憶していないような気がするんです。
 どうなのでしょう。女って、そんなに正確にオチンチンのこと覚えているものなのでしょうか。他の女の人たちの話しを聞いてみたいですね。
 ノーパンで歩くというのは、そんなに不安なことではありません。どんなに短いスカートでも、スカートがあれば、意外なほど不安なく歩けるものなのです。もっとも、ミニスカートだという恥ずかしさはあります。でも、それはノーパンとは関係のない別の羞恥なのです。
 ところが、ミニスカートなんかより、よっぽど長い膝ぐらいまでの長さのあるジャケットを着ているのに、スカートを付けていないと、ノーパンであることが、ものすごい不安になるものなのです。同じノーパンでも、夏にマイクロミニで歩くほうがアソコに風を感じるはずなのです。それなのに、アソコが晒されているような錯覚をするほどスカートがないというだけで、下半身に風と不安を感じるのです。
 街を歩いていても、私が下半身裸だと、皆が分かっているのではないかと思ってしまいます。それはどんなミニでもスカートをつけている時にはない感覚なのです。
 深夜のコーヒーショップに入ります。ジャケットは脱げません。脱げばまったく隠すものなくアソコを晒してしまうことになるからです。
 ジャケットを脱がずにトイレに行きます。フロントボタンを外すと、白のシャツの下に黒いものが見えます。上半身が厚着なのに下半身裸なのは、何とも奇妙な格好です。
 普通なら、トイレでジャケットを脱いで出て来るところなのでしょうが、私は着たまま出ます。
 さすがに長居は出来ません。
 そのまま、ほんの少しコーヒーを飲むだけで店を出ます。長居をすれば暑さを感じてしまうからです。さすがに暑いのにジャケットを脱がないのは不自然でしょう。
 帰りも、私は不安を抱えて歩きます。ジャケットをたくし上げれば、下半身は裸です。そのことを考えながら帰るのです。

 そのマンションには初めて行きました。私を誘ったのは、仕事先の男の子で私よりも十歳も下です。
 マンションに入ると、初老の男の人と美しい女の人がいます。女の人は下着に近い格好です。男の子は、その女の人に言われて玄関先で服を脱ぎはじめました。私が隣にいるというのに平気です。身の置き所に困る私の横で彼はパンツまで脱いでしましました。そして、全裸で両手を床につくのです。絶対に他人に見られてはいけないお尻の穴さえ晒しています。
「お前の仲間なのだから、お前がお頼み」と、女の人が彼に言います。私には何のことか分かりません。彼は「深夜姫さま、お願いです。一緒に全裸になってください」と、言います。もちろん、私は従えません。おどおどしていると、女の人は、彼のお尻を鞭のようなもので打ちました。彼は「ひー」と、呻いて玄関をころがります。その顔が私の靴にあたりました。私はまだ、靴も脱いでいません。ころがるまでは分からなかったのですが、彼のオチンチンはすでに十分に大きくなっていました。
「男の服を取り上げなさい」と、奥にいた初老の人が女の人に言います。彼は服を取り上げられました。このまま帰りたければ、全裸の彼をつれて駐車場まで行きなさい、と、そうした意味なのでしょう。
 それは出来そうにありません。同性と、年下の知り合いの男の子の前で全裸になるのは、恥ずかしいけど、私には従うしかありませんでした。


 そんな私の妄想がサトリさんの元では、現実として起きているのですね。同性の前で裸にされた男の子のお尻、私もものすごく見たかったです。サトリさんは、かなりのプレイをしているM女なのですから、きっとS女にもなれると思います。実は私も、自分ではMだと思うのですが、Sにも興味があります。もし、サトリさんがSを体験したら、私にも、いろいろ教えてください。


 最近、露出痴女してません。この寒さですし、花粉症が酷くなっているからです。ここ数日は雨で調子がいいのですが、それでも、露出出来るほど、元気にはなっていません。今日も妄想の話しで終わりました。外で脱ぎたい欲求は強くなっているのですが……

 このブログをはじめるもっと前の話しです。まだ、露出痴女になる前です。露出願望はありましたが、実は、実際に外で露出するようになったのは、最近のことなのです。
 その人は、私が昼下がりの公園でぼんやりと過ごしているところにやって来ました。人のあまり来ない公園でしたが、何しろ昼間なので、私は安心していました。それに、その人は、スーツ姿にもかかわらず女の子のように見えたのです。
「すいません」
 それでも、ベンチの前に他人が立つというのは、威圧感があります。私は一瞬、戸惑い、そして立ち上がろうとしました。でも、その人は、私の前で、しゃがんだのです。そして「聞いてもいいですか」と、言うのです。立とうとしたところで相手にしゃがまれたからでしょうか、私は立てなくなりました。
「誤解しないでくださいね。あの、僕のチンチンって小さいんですよ、よければ見てもらえないでしょうか」
 その言葉で、私はようやく立ち上がりました。あわてて周囲を見たのですが、助けを求められるような人はいません。犬に襲われたときの注意ではありませんが、急に後ろを見せて逃げてはいけないように思いました。ゆっくりと逃げようと思ったのです。でも、彼は「本当に見てくれるだけで、絶対に何もしません。だって、こんなところで何も出来ないでしょう」と、言います。見ると、すでにオチンチンが出ているんです。しゃがんだのは、それを周囲の人に見られないためだったのかもしれません。アソコから、たらんっと垂れているモノは、醜いモノなのに少しだけ可愛いと思ってしまいました。
「小さいでしょ」と、彼はそれを指して言います。本当は小さくありません。いえ、むしろ大きいと思いました。多分、五センチぐらいだったと思います。当時の私には、平常時でその大きさは小さいほうではありませんでした。
「あっちに行ってください、見たくありません」と、私は言いながら、ベンチに座りなおしました。それほど危険はないと思ったからです。本当は「もっと、じっくり見せて」と、言いたかったのですが、そんなことを言えば、相手はそんな女なら何をしても平気だろうと調子にのるかもしれないので、私はいかにも迷惑という顔をしたのです。心とは裏腹に私は午後の陽射しを楽しんでいるのだから、あなたがどこかに行ってよ、という態度です。
 その人は、しゃがんだまま手を後ろから回してオナニーしました。オナニーは見たことがないわけではありませんでした。でも、そんな姿でオナニーするところは見たことがありませんでした。
「小さいって、言って」と、その人に言われて、私は一瞬、自分が、それを見つめてしまっていたことを知りました。オチンチンは勃起してましたが、太さも大きさも変化しません。平常時五センチ、勃起しても五センチ。それは私には衝撃でした。出来れば私もそこにしゃがみこんで、もっと、じっくり見たいほどでした。
 その人は「いきます」と、言うと、少し身体を斜めにしてくれました。私の足に精液がかからにように気を遣ってくれたのだと思いました。そんなことをされているというのに、その気遣いが嬉しいように思えたのですから、私も普通ではありません。しゃがんだ姿勢のまま、その人は射精しました。かなり飛びました。確かに、正面でされていたら、私の靴にかかったかもしれません。それほど飛んだのです。
 私は冷たく「もういいでしょ、あっち行ってください」と、言ってしまいました。その人は、立ち上がると、そのまま行ってしまいました。立ち上がると、自動でオチンチンは仕舞われるのです。どうやっていたのかは今も分からないままです。逃げるようにして去って行くその人を見て、私は、ああ、彼も怖かったんだなあ、いっぱいいっぱいだったんだあ、と、変なことを思いました。その奇妙な感覚と、あの勃起しても同じ大きさのオチンチンと、オナニーは、かなり印象に残っています。別に、何がどうということもないんです。それだけの話しなんです。