面白い試みですね。


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ネットの掲示板に、「嫁に『俺お前の事好き』ってメール送って反応を教えろ」というスレッドが登場。他人事ながらもドキドキしてしまうこの試みが、話題となっている。

このスレッドは先週12日に、2ちゃんねるのニュース速報VIP板に立てられたもの。スレッドには当初こそ、「メーラーデーモンってのから返信来た」「早く二次元にメール送れるようにしろよ」「どうやってモニターの中に送るんだよ」と、茶化すような書き込みが続いたものの、徐々に本当に試みる者が登場し、

「どうしたのいきなり?でもありがとう(ハート絵文字)」
「知ってる」
「いきなりそういうこと
言うの反則!!
メールの文章読むだけで
顔がニヤけるとか、
意味わかんないし」

と、こちらまでニヤニヤしてしまうようなリアクションが次々と披露された。

すると、このスレッドはツイッターにも広がりを見せ、実に3600人以上がこの件についてツイート。また2ちゃんねるVIP板には「二番煎じだが」という断り書き付きで「かーちゃんに『いつもありがとう』ってメール送って反応教えろ」というスレッドも登場し、こちらのスレッドでも

「どうしたんですか
こちらこそありがとうね。
頑張ってくださいね」
「いまどこにいる
めしはたべたのか
はやくかえってこい今日はカレーだ」

など、心温まる母親からの返信が紹介された。

この「○○に××って送って返信を書き込め」というのはVIP板では定番のネタで、過去にも「愛してるってメール送って返信うp(=UP=載せろ)」「『愛してる』ってメール送って反応晒せ」などのスレッドが存在したが、ここまで挑戦者が殺到したのは初めてのこと。
冒頭で紹介したスレッドのなかでも特に反響が大きかったのは

「『子供と三人で声そろえてスキ!』
て動画が送られてきた」

という嫁からの返信。未婚者と思われるネット住民たちから

「ぎゃあああああああああああ!!!!!死ぬうううううううううううう!!!!!」
「涙が出てきた」
「今日一番の破壊力」

と、ある意味絶賛の声が寄せられた。
(R25編集部)


転載します。


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二〇〇四年、不妊治療を経て待望の妊娠。長かった悪阻(つわり)も落ち着き妊娠七ヵ月目の安定期のこと、体調が悪く胎動も感じられなくなった為、近くの産婦人科を受診。

 「心拍停止です。今すぐ分娩(ぶんべん)予定の大学病院へ行って下さい。」

 と告げられる。

 「一体何のこと?」

 すぐに理解できなかった私。

 「今回の妊娠はこれで終わりです」

 やっと事の重大さに気付きすぐに夫に連絡。迎えにきた夫の車で分娩予定の実家近くの大学病院へ。

 「娩出(べんしゅつ)しましょう」

 と言われるが『出産についての本』、まだ最後のページまでよく読んでいない。

 何が何だかわからないまま産声のない我が子の出産を迎えた。

 夫に似た顔の小さな小さな女の子。

 助産師さんに触ってあげてと言われるも、壊れてしまいそうで指先でチョンと頬(ほお)をそっと触れる事しかできなかった。

 病室へ戻ると助産師さんが来て

 「会いたい時はいつでも連れて来るので言って下さいね」

 と言ってくれるが産後すぐに葬儀の打ち合わせ。

 なぜ我が子の異変にもっと早く気付かなかったのだろうという後悔の念ばかり。今自分にできる事、亡くなった子にしてやれることが何も思い付かなかった。

 そんな時、助産師さんが提案をしてくれた。産着を用意していたのならば産着を着せてあげるとか、棺(ひつぎ)におじいちゃん、おばあちゃんからの贈り物の玩具(がんぐ)などを入れてあげるとか……。私は言われるままの事を家族に頼んだ。そして妊娠中にお腹の赤ちゃんに話し掛けるのに使っていたオランウータンのぬいぐるみを棺に入れた。

 病院内でのお別れでは小さな棺に入った娘の為に病棟の助産師、看護師の方々が集まり花を一つずつ入れて手を合わせてくれた。

 退院後、私は最後に棺に入れたぬいぐるみと同じ物を手に入れ、娘の形見だと思ってずっとそばにおいていた。

 それから私は再び妊娠し、あの大学病院へ入院。切迫早産で長いこと病棟で過ごす事となった。枕元にはオランウータンのぬいぐるみ。お腹の中の赤ちゃんを守ってくれるだろうとお守りにしていた。

 出産の日。予定通り、帝王切開の手術が行われた。私の入院中の担当助産師はあの時の方ではなかった。正直、あの時の助産師さんが担当だったら心強かったのにと思っていた。しかし看護師長の計らいで手術の前日から担当があの時の助産師さんとなった。

 手術には研修医の方二人が立ち会う事になった。助産師さんが研修医の方に私の入院の経過などを話した。

 「上のお子さんを亡くされ二度目の出産となります」

 私の方を見て

 「お姉ちゃんがついているから大丈夫ですね」

 と笑顔で言った。

 私は嬉(うれ)しかった。戸籍上には何も残らない娘の事を「上のお子さん」「お姉ちゃん」と存在を認めてもらった事が、とにかく嬉しかった。

 手術室へ向かう時間がきた。助産師さんがビニール袋を持って迎えに来てくれた。そしてオランウータンをビニール袋に入れ、私の枕元に置いた。

 「一緒に手術室へ行きましょう」

 「手術にぬいぐるみが立ち会うなんてすごいね」

 家族が笑った。

 手術は無事に終わり、元気な女の子が誕生した。

 私の手術の後、助産師さんはすぐに病院を出たとの事。もしかしたら私の為に勤務を変えて立ち会ってくれたのではないかと後で気付いた。

 退院の日、赤ちゃんに天国へ行ったお姉ちゃんの為に用意していた産着を着せた。

 あれから六年がたとうとしている。

 娘は元気に成長している。近頃は天国のお姉ちゃんの事も理解しはじめた様で、お供えをしてくれたりもする。

 今思えば最初の子にしてあげられなかった事、あの時に助産師さんの提案がなかったら、きっと後悔していただろう。

 そして私の二度目の出産、天国の娘も交えての温かさに満ちたお産となったのも、あの助産師さんのお陰だと思っている。

 「Oさん、本当に有難うございました」

転載します。


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七年前の春。当時三十一歳。妻と娘、それにようやく出来た二人目の長男が妻のお腹にいることが分かった、幸せの絶頂期だった。

 たまたま行った献血がきっかけで発覚した「慢性骨髄性白血病」。それと移植の後遺症として発症した「閉塞性細気管支炎」が自分の名刺代わりとなる。

 兄がドナーとなり移植するも、一年足らずで再発。以後、薬剤副作用の影響もあり、肝機能、腎機能、目、骨、口と至る所に不具合が生じ、呼吸器障害のおかげで、身体障害者となり、ゆっくり歩く程度が精いっぱいの身体となってしまう。

 この七年間で一千日ぐらいは入院していただろうか。地獄の治療時期や現在に至るまでの医療体験を振り返る。

 移植治療のための無菌室内、げっそり痩(や)せ、全身の毛が(まつ毛に至るまで)抜け落ち、放射線で傷んだ皮膚は黒ずみ、別人の風貌となった自分。そんな自分を、ガラスの向こうにいる当時三歳の娘は一瞬、父親と理解できないほどだった。

 誰だか分かった瞬間「パパァ、パパァ」。自分の元へ行きたいと、ガラスの壁を叩(たた)く。そんな娘の顔が、涙でかすみ、見えなくなる。息子誕生の連絡を貰(もら)ったのも、移植治療中の無菌室内。診察に来た主治医(女医)がガラス越しに「おめでとう、同い年でよかったね」。病前O型だった血液が、移植で生まれたてのB型に変わった自分は、赤ん坊と同じように、デリケートな状態なので、同い年(赤ちゃん)だと言うのだ。

 その言葉に、今まで主治医の前ではこらえていた涙が一気にあふれ出す。その様子をみた主治医も同じように。

 今思えば、この時期が大きく看護師・医師を見る目が変わった時期だった。

 薬物性の糖尿病で行っていたインスリン自己注射も、自分でできなくなるほどのうつ状態になった時、夜通し話を聞いてくれて、精神科への受診から助けてくれた看護師。

 気管支炎、確定診断のため、肺の一部を採取する手術を受けた際、術後、肺からつながれたチューブに身動きとれず痛がる自分のために、当直の間中、付きっきりで対応してくれた看護師。「私の車にあるクッションなら丁度(ちょうど)いいかな」。ベッドと背中の間へ挟み込むことで体勢が楽になるかと。

 「閉塞性細気管支炎」が二度と治らない病気で、生きていくにはいずれ、妻や兄の肺の一部を移植するしかないと説明を受けた面談室。「奥さん、旦那さんに肺あげられる?」の主治医の問いに「うん あげるよ」と即答し号泣した妻、主治医も涙。

 その場にいた自分も、かぶったニット帽を鼻まで下げるしかない。長く苦しい闘病生活で、精神的にも限界が近い自分に対し、病院スタッフが連携し、出産三日目で、歩くことすらままならない状態の妻を、何とか自分の元へ送り出してくれた産婦人科の先生と、受け入れてくれたスタッフなど。

 思い起こせば、数えきれないほど、温かい気持ちを感じる場面があった。多くの受診科を、繰り返しの入退院で、延べ一〇〇人近くの医師・看護師との交わりの中。そりゃ中には、こちらの意図が伝わらず、言い合いになったり、腹が立ったりすることもあったが、幾度もその、温かい気持ちに助けられた。私服に着替え、帰宅する姿を見かけると、普通の人にしか見えない。

 そんな普通の人が、病院の中では誰よりも頼れる大きな存在に変わる。今年三十九歳になる自分ですが、白血病をきっかけに、他の人より少し大きめの分岐から、多少ガタガタ道を歩くこととなった人生だが、最近ようやく「こんな人生もありかな」と思えるようになり、悩むこと自体に飽きてきたような気がする。

身近な周りを見ただけでも、病後数年だけで、重度の肝臓病で夫婦間生体移植する予定の妻をもった兄(もしかすると三度、ドナーとなる可能性もある)。

 治療前、人生最後の煙草(たばこ)を一緒に吸った時以来、「あいつの弱い顔なんか見られるか」と言い、その時以来、一度も顔を合わすことの無いまま、事故死した親友。子供の頃からの病気で、人生のほとんどを闘病に費やし、三十五歳の若さで亡くなった従姉(いとこ)など、生きたくても生きられない者や、またその逆に、自ら命を絶つ人までさまざま。

 せめて、同い年の我が子と共に成人式を迎えるまでは、何とか生きていたい。この病気を患ったことで、妻の大切さと共に、病院スタッフへの感謝を忘れてはいけない。医療従事者として、もし自分がその立場なら、同じように精いっぱいの看護・治療を施すと思うし、人間として、当たり前のことと思う。

 しかし、その当たり前のことに感謝できる気持ちを持たせてくれた経験が、今の自分の、唯一の財産。よく言われる。「血液型変わると、性格変わる?」こう答える。血液型が変わったからではなくて、変わるくらいの経験が、人を変えてくれたのだと。

 皆、ありがとう。

転載します。


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「切腹に断首。でも私、諦めないよ」

 長女が目に一杯涙し、笑って言います。

 三歳で腸重積を患って以来、すくすく育った長女に異変が起こったのは、中学に入ってから。別人のように落ち着きがなく、やたらに汗をかき、だらしなく横たわり、ついには林間学校で倒れてしまったのです。

 当家は十二人の大家族。ばーちゃんが泣いて訴えます。「何か病気があるとよ。お願いやけん病院に連れていってやってんしゃい」

 しかし、見た目には普通。どこに診せたら……。戸惑ううちに、発熱して近くの病院へ。

 「風邪ですよ」とおっしゃる先生に、「実は……」と思いきって相談をしてみました。「精神科でしょうか?」。先生は「その前に検査を」と紹介状をくださいました。

 紹介された病院の診断は、甲状腺亢進(こうしん)症。薬で治療を始めましたが、改善しません。専門病院へ、と再び紹介を受けて電話をした病院の「遠いですが?」にも、本で読んだ<眼球突出や喉の腫れ>が既に出ていたし、<最悪は心臓麻痺(まひ)>という文言がよぎり、「構いません」と即答。すがる思いです。

 診察初日、専門病院の先生は「薬で改善するはず。きちんと与えていないのでは?」と繰り返されます。進展せぬ状況に悩み、この日も早起きし、遠距離運転で疲れていた私は、「薬の管理は、この娘の祖父がしています。非常に几帳面で、その懸念は一〇〇%ありません」。つい強く答えてしまいました。

 先生も少し気分を害されたか、しばらく黙っておりましたが、やがて「治療しましょう。ただし、薬をキチンと服用、当初は頻繁に来院、許可するまで絶対安静。そして諦めない事が大切。約束だよ」

 ちょうど夏休み、一番楽しい時期に、長女はベッドに横たわる日々。「超最悪ーっ。生まんどけば良かったとよ」と叫ぶ事も。

 「大病で苦しんでいる人が大勢いる。病院で、同じ病の驚くような症状の人も沢山(たくさん)見たじゃないか。第一、先生と約束したやろ」と諭すと、唇をかみ、横になります。

 どうにか症状も安定し、二年間、治療を続けましたが、ある程度からの改善はなく、「薬でこれ以上は……。思い切って手術を。ただし、計測できるものではなく、いわば勘です。切り過ぎると逆に低下症の怖れも」

 私は声も出せず、うなずくのがやっと。

 お年頃の本人は、首に傷が残るという事も辛かったのでしょう。「切腹に断首……」。手術を待つベッドでついに涙をこぼしました。

 その右手は妹が、左手は上の従妹(いとこ)がしっかりと握っています。側に立ち尽くす祖母には、真ん中と下の従妹が寄り添っています。

 「ねぇ」長女が涙を拭(ぬぐ)い、恥ずかしそうに「もし治ったら…お医者さんになっていい? 私も、私のように苦しむ人の力となりたい」

 妻が答えました。「うん。あなたが三歳の時、救急病院で、女医さんが『緊急手術。親御さんの許可を』とおっしゃったの。ママは怖くって、じき主人が……と答えると、『一刻を争います。諦めるの? 貴女(あなた)が親でしょ! 決めなさい!』と叱咤(しった)され、『ハイ』と答えると、白衣を翻して手術室へ。それであなたは一命を取り留めたのよ。あんなカッコいい女医さんになってね」

 幸い今回も手術は無事に終了。やがて結果判定。先生は顔いっぱいの笑顔で「諦めず、よく頑張ったね。大丈夫、治ったよ」。

 「ワッ!」。皆、思わず歓声をあげました。

 しかし、次の問題が……。高校の進路相談で、長女の希望を話したのです。すると、担任の先生がスーッと笑顔を消し、「お父さん、私の知る限り、本校から医師になられた方はないと……」。どう言って諦めさせよう……。校門を出た私は、思わず天を仰ぎました。

 そんなある日、経過検診に行った病院で、手術時にお世話くださった看護師さんが、「経過良くって、良かったね。そろそろ高校も卒業ね」と声をかけてくださいました。

 私もつい気軽に長女を見ながら、

「ねぇ。だけど、いくら頑張っても手術する側になれないのが残念だねぇ」

 すると看護師さんは「医学部志望だったわね。今までは病気で、勉強に全力できなかったしねぇ。でも、先生がいつもおっしゃるように、諦めなかったから病気に勝てたのよ。諦めない事が大切!」。

 その時、長女の目がキラッキラッと光るのを私は見ました。また、諦めないな……。

 現在、手術の日に長女の右手を握りしめていた妹が研修医一年目。左手を握りしめていた上の従妹は医学部の五年生。祖母に寄り添っていた真ん中の従妹は薬学部の三年生になりました。

 そして長女は……。「私のように苦しむ人の力になりたい」。二年目の研修を修めます。

 きっとこの医師は、こう患者さんを励ますでしょう。

 「諦めない事が大切です」

白井 彩愛 (しらい あやめ)さん

 神奈川県茅ヶ崎市 10歳 ・ 茅ヶ崎市立松林小学校 四年

 

 ■ 開かずのとびら

 その病院には開かずのとびらがあった。

 昨年の夏にパパの病気がわかった。いろいろなけんさのために、パパとママは大学病院に通った。パパは骨ずいの病気でいしょくをしないといけなくて、毎回二時間かけてゆ血を受けながらいしょくのじゅんびを進めていた。私は話を聞きながら毎日ドキドキして過ごした。

 骨ずいいしょくを受けるには白血球の型が合う人をさがさなければならない。パパには兄弟が二人いる。先ず二人の血がパパと合うか調べた。ママの話だと兄弟でも二十五%しか合わなくて、兄弟で合わないとドナーバンクという所でさがしてもらわなくてはならない。合う人が見つからないとパパは死んでしまう。

 結果が出るまではとても長く感じた。三週間後、妹の陽ちゃんの血がパパと合っていしょくできることになったと決まった時にはママは泣いていた。私はビックリしてとてもよかったと思ったけれど、大好きな陽ちゃんも入院して血を取ると聞いて、また心配なことが増えた。

 十二月に一回目の入院。いしょくのじゃまになる大きくなってしまったひぞうを取る手術を受けた。パパの病室は十一階。エレベーターを降りてすぐにあるラウンジから先に私は入れない。とう明で先も全て見えているのに十二歳以下は入れないとびら。「どうして子どもは入っちゃいけないの?」毎日お見舞いに行ってそう思った。お風呂にも毎日入っているし手も洗っている。かぜもひいていないしマスクもしている。機械なんて絶対にさわらないのにどうして? パパに会いたいのに。その時会えなかったのは四日間。パパが点てきをいっぱいつけて痛そうな顔で歩いて出てきてくれてやっとパパに会えた。うれしかった。

 二回目の入院は三月。いよいよいしょくのための入院。そしてまた開かずのとびら。いしょくをするには無菌室に入る。よくなるまでその部屋から出られない。陽ちゃんも入院した。骨ずいを抜いて大丈夫なのか心配だった。量は点てきバックの四分の一くらいだと聞いて「たったそれだけでパパが元気になるんだ」と思ったけれど、パパの体が陽ちゃんの血をてきだと思って戦ってしまったら大変だということも聞いて「戦わないで」と願った。

 パパと話せるのはけいたい電話だけ。前の入院の時はお手紙の交かんをしたけれど無菌室はそれもダメ。毎日ママにパパの写真をとってきてもらった。

 パパがカーテンから出られるようになったある日「今度から屋上駐車場に車をとめて」とパパにママが言われた。ママも何でかわからないけれど次の日は屋上にとめた。するとパパから電話があり、見るとパパの病室が見えてパパが手をふっていた。私はうれしくてうれしくてたまらなかった。それからは毎日車を屋上にとめて、帰りには小さく見えるパパを見ながら電話で話した。担当のかんごしさんと二人で手をふってくれる時もあった。開かずのとびらとたたかっていた私は、パパのアイデアでパパと会うことができるようになった。

 ママとばあばが交代でパパの病室に行っている間、私は宿題やお絵書きやゲームをしながら大きな窓から十二階からの景色を見て待った。遠くにはきれいな山や新幹線が見えるのに、すぐ下を救急車やドクターヘリが忙しく通っていた。水曜日には大学の音楽部のお姉さん達がかん者さんのためにラウンジで音楽会を開いている。私も参加して手話歌を覚えたりした。その時間だけは楽しかったけれどやっぱり開かずのとびらから入って行くママやばあばを見送るのはさみしかった。でも、帰りにはパパに会えると思うと前よりは待つのもいやでなくなっていた。四月、パパは四十日という早さで退院した。

 今パパは家で体力作りの毎日を過ごしている。私は今年の夏休みの終わりに肺炎にかかり初めて採血と点てきをけい験した。その時パパがどれだけ辛かったのかよく分かった。

 私がこわくて泣いたあの点てきをパパは毎日していたのだから。今は順調に治ってきているパパと毎日一緒にいられるけれど、二度とあの開かずのとびらの向こうへは行かないでほしいと思っている。

転載します。


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世界銀行や国際通貨基金のスタッフの間でこのメールがまわっているそうです。
(意訳しました)

10 things to learn from Japan-
日本から学ぶ10のこと

1. THE CALM--Not a single visual of chest-beating or wild grief. Sorrow itself has been elevated.

静寂ーーーそこには威勢よく騒ぐ人はなく、嘆きにくれ叫ぶ人の姿もない。ただ、悲しみの存在だけがこみあげている

2. THE DIGNITY----Disciplined queues for water and groceries. Not a rough word or a crude gesture.

威厳ーーー水と食料のための待ち行列は規律があり、そこでは荒い言葉をはいたり、粗雑な行動をとる人がいない


3. THE ABILITY--- The incredible architects, for instance. Buildings swayed but didn’t fall.

能力ーーー信じがたいほどの能力ある建築家たち。ビルは揺れた。しかし崩れたビルはなかった


4. THE GRACE-----People bought only what they needed for the present, so everybody could get something.

品格ーーー人々は自分達が当面必要としたものだけを買った。だから、皆がそれぞれ何かものを手にいれることができた


5. THE ORDER-----No looting in shops. No honking and no overtaking on the roads. Just understanding.

規律ーーー店での略奪はなく、路上でも追い越しや叫ぶものはいない。皆が理解を示している


6. THE SACRIFICE----Fifty workers stayed back to pump sea water in the N-reactors. How will they ever be repaid?

犠牲ーー原子炉にポンプで海の水をかける為にとどまった50人。 彼等にこの恩をどう返せばよいのか?



7. THE TENDERNESS------Restaurants cut prices. An unguarded ATM is left alone. The strong cared for the weak.

やさしさーーーレストランは値下げをし、警備のついていないATMはそこに放置されたままである。そして強い人は弱い人の世話をしている


8. THE TRAINING----The old and the children, everyone knew exactly what to do. And they did just that.

訓練----老人、子供、皆はそれぞれ何をしたらよいのかきちんと知っており、 そして、彼らは淡々とそれをしている



9. THE MEDIA----They showed magnificent restraint in the bulletins. No silly reporters. Only calm reportage.

メディアーーー報告する時に抑制し落ちついている。 愚かなレポーターがいない。 落ちついたルポが続いている



10. THE CONSCIENCE---When the power went off in a store, people put things back on the shelves &left quietly.


良心ーーー店で電源が切れた時に、レジに並んでいた人々は、物を棚に戻し、静かに店を去った



Truly Inspirational --what is happening in the Land of the Rising Sun.

本当にInspirational--日出ずる国で起こっていること



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管理人です。久々に私見でも書いてみようと思います。今回の大震災といい、今後、世界の流れ、形は良くも悪くも大きく変わっていくのではないか、、と個人的に思っています。

【世界】
世界の人口は今70億人に達していて、2050年には人口が90億人に達する見込みです。これまでの先進国は日本の1億人、アメリカの3億人、ヨーロッパの3億人と、約7億人程度で、残り約60億人が途上国が生産国、世界の工場として先進国の消費を支える形でした。
一方、これからは、いわゆるBRICS,NEXT11といった新興国が、先進国並みの成長率、発展をはじめます。そうすると、これまでは7億人だった先進国の消費人口に、中国、インド、インドネシア、タイといった総計30億人を超えるマーケットが一気に先進国の様な暮らしを始めると、当然、世界のあらゆるものの生産は追いつきません。
この兆候は足元でしっかり既に現れていて、石炭、天然ガス、石油、食料、繊維、全てが世界中で実にほんの数年前の数倍に暴騰しています。
しかし、新興国が発展を始めた初期段階でこの暴騰ぶりです。これはまだ序章に過ぎません。加えて、世界の尽きないエネルギー需要に大きく応えていた、地球温暖化を防ぐクリーンエネルギーとして注目、大きく推進していこうと世界が見据えていた原子力が、今回の事故を契機に、原子力の推進は世界中で抑止されますので、当然、地球温暖化、かつ、有限な資源である石炭、石油、天然ガスに回帰せざるを得ません。そうすると、基礎的な資源というのは全ての経済の生産活動に係ってきますから、全ての物価の値段が暴騰していきます。食料品、服、家具、全てに及びます。
これは既に世界で起きていることで、中国やアフリカ、南米では物価高騰、食料が買えない事に対するデモが起こり、チュニジアではその不満を機に、デモが拡大し、遂には政権が崩壊。今これが中東で続々と波及しています。

【日本】
一方、日本はどうでしょうか。日本ではデフレ、デフレと叫ばれ、物価の上昇、インフレというと、ぴんと来ないかもしれません。これは、今まで歴史的高値まで買い進まれていた円高が作用しています。円が高い為、輸入コストを安く抑えられ、国内の物価は安定していました。しかし、プラザ合意以来続いてきた長い円高の歴史も、今回の震災を契機に、遂に流れを変えそうです。これまで長く円高要因に作用していた貿易黒字が、今回の膨大な復興需要、資材の輸入で今後数年単位で経常赤字に変わる見込みが強いです。加えて、日本はこの震災で0金利を更に長い間解除できない一方で、他の世界諸国は、リーマンショック以来ジャブジャブに続けてきた金融緩和により、ようやく景気、雇用が回復傾向で、金利を上げ始めています。加えて、上述したような世界的インフレを抑える為にも、金利を上げざるをえません。
一方で日本は金利を上げられない。海外の金利は上がり、投資家の資金が外貨に流れる、加えて、これまで需給では円高要因として円安を抑えていた経常黒字が、経常赤字、円安方向に変わる。ドルは、76円を歴史的高値として、一気に円安方向、年内100円、数年以内には120円方向まで一気に可能性があると思います。更に、膨大な復興費で日本の財政は更に悪化、国債の金利が徐々に上がり始める一方で、これまで国債を買い支え、金利の上昇を抑えていた本邦金融機関は、復興需要で民間企業に資金を融通する必要があるので、是までのように国債を買い支える資金がもう捻出できません。
そうすると、日本国債の金利が上がりはじめ、日本国家は金利の利払いが遂にできなくなり、最近のギリシャ、2000年のアルゼンチン、1998年のロシア、1997年の韓国と同じく、デフォルトに陥る可能性が高まってきます。
デフォルトに陥ると、要は国家破産なので、国内の物価は暴騰、ハイパーインフレーションが起こります。
要は円の価値が無価値になる為、これまでこつこつと貯めてきた円の預金、
それが、10億円であろうが、1億円であろうが、100万円であろうが、無価値になります。価値を持つのは、実物資産である金や銀、資源大国の豪ドルやカナダドルでしょう。そうすると、アルゼンチンや、古くは日本の戦後1946年に実施された国家による預金封鎖、要は、国民の資産を取り上げて、国家の借金返済が行われる、という自体が起きかねません。
更に悪いことに、国力とはすなわち人口力をさしますが、日本の人口は今をピークに、2050年には1億人にまで下がっていきます。人が減るのですから、消費が減ります。住宅が減ります。国内全体の需要が減ります。当然日本経済は衰退の道を辿ります。

世界、そして日本の経済、国の形は、これから大きく変わっていく可能性があります。アフリカや途上国の様な、衣食住に困窮する国、日本にとってはブラウン管の中の、他人事だった世界が、日本の国力衰退、失業の増加に伴い、現実化してしまう可能性があります。

一方で、これまで消費一辺倒だった世界、都市生活の中で他人の事を気遣う優しさを忘れていた日本人が、今回の災害を気に、一つになろうとしています。計画停電により、無駄な電力や消費を抑えようとしています。
これから訪れる世界の劇的な変化、一日一日を生きていくのが大変になっていくかもしれない、そんな世界では、お互いがお互いを支える、心遣いや、連帯感、優しさ、思いやり、一緒に乗り切る仲間が大切になり、日本人、そして世界は確かにその一歩にしっかりと足を歩み始めているように思います。この有限な資源、環境で、もう持続できない資本主義の世界を方向転換させる、今回の震災を機に、世界は徐々にその方向に向かっていくかも知れません。

管理人

友人から聞いた言葉を転載します。


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"Each second we live is a new and unique moment of the universe,

私たちが生きる全ての瞬間は、この世界における新しく特別な時間だ

a moment that will never be again

二度と繰り返されない瞬間

And what do we teach our children?

さあ子どもたちに何を伝えよう?

We teach them that two and two make four, and that Paris is the capital of France.

私たちは2+2が4だとかパリはフランスの首都だとかを教えている。

When will we also teach them what they are?

子どもたち自身についてはいつ教えるんだ?

We should say to each of them:

ひとりひとりにこう言わなければ、

Do you know what you are?

君は誰だか知ってる?

You are a marvel. You are unique.

君は素晴らしい。君は特別だ。

In all the years that have passed, there has never been another child like you.

今までにたくさんの時が過ぎたけど、君と同じような子どもはいなかった。

Your legs, your arms, your clever fingers, the way you move." -Pablo Casals

その足、手、賢い指、動かし方。