LITCHI
前回書いた“耽美主義”という言葉。
実は数年前から自分の中で一つのテーマになっている言葉なんです。
“耽美”とは何か。
言葉が持つイメージだけが先行してしまえば、それこそある程度の「形」は決まってしまうのかもしれない。
例えば“ゴス”だったり、日本では一般的に“ビジュアル系”と言われる分野だったり。
何かしら退廃的なイメージや、そこにある淫靡な世界観=デカダンス。
そういったものを“耽美”と捉える傾向があるような気がしないでもない。
しかし!
前回書いたようにそもそも“耽美主義”というのは「思想」より「形」を求めるという観点そのものであり、
そこで求める「形」がどんなモノであろうと“耽美”は“耽美”だと思うんですよ。俺は。
つまり作品に対する定義ではなく、制作意図の定義だという事。
間違ってるかもしれないけど、前回書いた内容はそういう意図です。
俺にとって“耽美”の極みは、今はなき東京グランギニョルに他ならないわけですが、
もし飴屋法水氏自身が「形」より「思想」を重視しているとしたら、それは“耽美”ではないと思うわけです。

実は数年前から自分の中で一つのテーマになっている言葉なんです。
“耽美”とは何か。
言葉が持つイメージだけが先行してしまえば、それこそある程度の「形」は決まってしまうのかもしれない。
例えば“ゴス”だったり、日本では一般的に“ビジュアル系”と言われる分野だったり。
何かしら退廃的なイメージや、そこにある淫靡な世界観=デカダンス。
そういったものを“耽美”と捉える傾向があるような気がしないでもない。
しかし!
前回書いたようにそもそも“耽美主義”というのは「思想」より「形」を求めるという観点そのものであり、
そこで求める「形」がどんなモノであろうと“耽美”は“耽美”だと思うんですよ。俺は。
つまり作品に対する定義ではなく、制作意図の定義だという事。
間違ってるかもしれないけど、前回書いた内容はそういう意図です。
俺にとって“耽美”の極みは、今はなき東京グランギニョルに他ならないわけですが、
もし飴屋法水氏自身が「形」より「思想」を重視しているとしたら、それは“耽美”ではないと思うわけです。
