私は「みんなに関する問題においてみんなの為にならない答えが正しいと言うことは絶対になく、常に正しい答えはみんなの為になる答えである」と言っています。また「みんなの為になる答え」がすべて正しいのであれば「みんなの為」が絶対善であり、その絶対善である「みんなの為」になる、適う、合致する答えは当然にすべて正しい答えと言えます。これから絶対善とは「みんなの為」ということが導かれます。

 

また絶対善の意味とは善の対である悪が絶えていると言うことです。対が絶えているこれを絶対というのです。ですから絶対善には悪が絶え、悪は一切ないのですからその絶対善に合致する答えは当然にすべて善い、正しい答えと言えます。

 

 

これについて何か論理的に間違いがあるでしょうか。なにも矛盾はないのです。つまり絶対善とは「みんなの為」と導くことが出来たのです。そのように言えば「みんなの為」とは何だ、「みんな」とは誰を指すのだと反論がありますが、とりあえず「みんなの為」が何かわからないとしても論理的に「みんなの為」が絶対善であることには間違いがないのです。

 

しかしここからが今回言いたいことですが、なぜ私たちは「みんなの為になることは正しい」と誰でもそう感じるのでしょうか。「みんなの為になることは正しい」と誰かに教えられたこともないはずなのになぜか「それは正しい、常識じゃないか、当たり前だ」とみんなが考えるのです。これを私たちは「それは道理である」というのです。道理とは理屈では分からないが「そのようにあるもの、そのようにしか考えられないもの」を言います。

このように私たちには潜在意識的に正しいとは何かが分かっているのです。それは理屈ではなく道理なのです。

 

また私が絶対善である「みんなの為」とは「みんなの幸せです」と言えば「幸せなんて人それぞれだ」だから絶対善が「みんなの幸せとは言えない」とAIでさえもそのように反論するのです。しかし幸せもまた私たちは理屈では説明できませんが、みんなに共通する幸せの意味をちゃんと潜在意識的には知っているのです。みんなが「幸せになりたい」と思うときその幸せの意味はみんなに共通するものなのです。

 

不思議なことですが私たちは教えられなくても潜在意識的にちゃんと知っていることがあるのです。それを道理と言いますが、その道理とは絶対善である「種族(群れ仲間)保存、みんなの安心・幸せ」に適う普遍的なことを道理というのです。ですから私たちは本能的に「正しいことは種族(仲間の群れ)保存、みんなの幸せに適うことである」と知っているのです。善も美も幸せなどもすべて本能的なものであり、それらの意味を理性ではなかなかわかりませんが感覚的にはすでに知っているのです。

「善、正しいは人それぞれ」「美も幸せも人それぞれ」と言いますがそれらは本能的なものですからやはりみんなに共通するものがあるのです。

 

また言えば「信号を守ることは正しい」と誰でもそう考えます。しかし赤ちゃんはそれは分かりません。なぜならまだ理性がないからです。自然界には信号はありませんからまず信号とは何か、その意味、機能を理性で理解しなければならないのです。ですから「信号を守ることは正しい」と理解するには理性が必要なのです。しかしそうであっても本能的善がなければ理性だけで正しいを決めることはできないのです。

 

 

またトロッコ問題において太った人を線路に突き落とせばその人は死ぬがトロッコは止まり五人は助かると言う設定もあります。この条件であれば今度は「それはいけない」と考える人が逆に多いのです。ではそのいけないと言う理由は何かと聞いても確かな理由を答えられないのです。しかし潜在意識では「それはいけない」と感じているのです。そしてその感覚は正しいのです。

 

何十億年の経験により種族保存に必要なものがDNAに書き込まれ本能となったのです。理性などその本能のすごさに比べれば屁のようなものなのです。

縄文人たちは本能的に暮らしていたのでしょう。だから一万年以上もの間、争いもなく平和に暮らすことが出来たのでしょう。現代人は理性だけで物事を考えるからいつまでも経っても争いは絶えず、何千年経っても善も美も幸せも定義できないでいるのです。私たちは理性重視ではなく本能のすごさというものをもっと強く認識すべきではないでしょうか。なぜなら私たちは本能と理性によって生かされているのですから。