午後7時30分。

いつものように街で引っ掛けた適当な女と、適当にシャレたフレンチの店で談笑していた。

今日、この女はこの世から消える事になる。

物事を完遂するために、なんらかの犠牲はやむを得ない。

それを最も迅速かつ適切に成し遂げるために、人が最も適当な存在だ。

人間は生きている事が前提にあるとして、2つに分けるならば男と女、もしくは生かしている人間と生かされている人間があるとKINGは言った。

僕も最初は抵抗があった。

命を粗末にする事は良くないと、倫理上の御託を並べて批判的だった。

けれど僕は、生かされている人間側で感情を露にして生きる事ができなかった。

そうしてそれに甘んずれば、感覚はどんどん鈍くなる。

目の前で、胸の中で、多くの人間が命を落とした。

そういう現場に幾度と無く遭遇したし、これからも遭遇するはずである。

眠れない夜もあったし、嘔吐がとまらない夜もあった。

それから気が狂ったように快感を覚えるようになり、今では立派な日常の風景と化した。

非日常だって日常になる。というより、非日常なんてこの世に存在しない。

長く生きれば人の死に直面する事だって多々あるだろうが、蓄積する悲しみや慈愛はいつか飽和状態になる。

そこに死の意味だ理由だ原因だなんてクソほども役に立たない。

動くか動かないか、ただそれだけにしか興味がない。

一般的な仕事だって、恋愛だって同じ事だ。

初めは目新しくて新鮮で、心身とも喜怒哀楽に刺激を受けたがる。

けれどもそれは長くは続かない。少しずつ喜怒哀楽を削ぎ落としていく作業が始まり、気が付けば感じない日々に突入する。

当たり前の事だ。

人の心配をしているほど暇ではないし、立派な人間でもない。

だから僕はこの女が死のうがどうなろうが何とも思わないわけだ。

アルコールで頬を染めるその女は、それなりに美しかった。

いかにも生かされていますといった顔や仕草や声が心地よかった。

いつも運命を人に委ねて、それでも自力でとでもヌかして歯をグラつかせてくれそうな、単純明快さが爽快だった。

「このあと、どうする?」

チラッと時計を見て、僕は女に最後の選択を迫った。

いや、選択肢などない。イエス・ノーは表面上の意味しかなくて、中身、つまり結果は同じ事。

手荒なマネはそれでもしたくないし、できればイエスと答えて欲しい。

僕はいつもそう思いながら、最後にこの質問をする。

僕にとって好都合な答えが返ってきた。

いよいよ今日の仕事が始まる。

『こっちは順調に準備完了した。では後ほど』

CCで一斉送信した後、僕は女とともに店をあとにした。