「セイヤ!!」







この声を聞いたのを最後に、僕は記憶の全てを失ってしまった。

自分の名前はもちろん、今まで付き合ってきた女性、仕事、口座の暗証番号から靴のサイズまで、キレイさっぱり忘れてしまった。

あの日から半年が経ったが、まだ世の中の全て、いや、日常生活の手を伸ばさなければならない事さえも疑問に感じてしまう。

ただ、僕はひとつだけ忘れていない言葉があった。

ある一冊の本の、特に気にも留めなかった一節が、換気扇のガンコ汚れのようにこびりついて仕方がない。

「一番不幸な事は、親から授かったこの世で唯一無二の名前を忘れる事だ。」


記憶が飛ぶ以前に付き合っていた女性が幸いにも名乗り出てくれたおかげで、僕は一番の不幸からは逃れられたらしい。

僕の名前は「萩野純平」という名らしい。

親元を離れ、10年が経ち、昼間は少林寺拳法の先生、夜は出張ホストをやっていたらしい。

親の名前も、居場所もわからない。

彼女である清美は特別美人では無いが、愛嬌があり、僕よりも4つ歳が下で、仕事は六本木ヒルズとか言うわけのわからんデカイ建物の何階かで、受付をやっているらしい。

僕が記憶を飛ばしてしまった日は、丁度付き合って1週間が経過した時だったらしい。

その為に友人はもちろん、親の名前や居場所を知っているはずも無かった。


半年経った今も、まともにコミュニケーションがとれず、ぼんやりと外を眺めながら道を歩く人達を見ている事が多い。

半年間で随分と景色は変わるものだ。

木が枯れた。草が枯れた。雲の形も変わったし、街行く人々も歳を取った。


僕は清美が居なければ一人だった。

そんな事を思うと、清美に情が沸いた。

それは段々と、僕の考えや性格が自分の中で理解していけば行くほどに、その感情は大きくなっていた。

清美がいなければ、僕はこの先、生きていく事ができない。

清美はもう、僕の中で「女」ではなかった。恩人だった。

僕は清美の言う事なら何でも素直に聞き入れたし、清美は清美で僕に気を遣ってか、色々な事を社会復帰の為に教えてくれた。

掃除、洗濯、あと料理も覚えた。

僕はぼんやりと外を眺めている時間の他は、料理本を読んでいる事が多かった。

僕は毎日、朝起きると朝ごはんを作る。

自分でも、大分上手くなったと思う。

清美は僕よりも30分ほど後に起きてきて、いつも僕の料理を褒めてくれる。

清美を会社に送った後、僕は軽く部屋の掃除をし、洗濯物が溜まっていたら洗濯をする。

あとの時間は無に近い。脳は記憶をなくしているが、どうやら体には僕の30年余りの記憶が染み付いているらしい。

外をぼんやり眺めていると体がどんどん軽くなり、急に全身の感覚が敏感になったりする。

軽く100メートルはあろうかと思う距離で歩く人達の声が鮮明に聞こえる。

走る車の車内のBGMが鮮明に聞こえる。

キンモクセイのニオイをかき分けるように、歩く人々の体臭が飛び込んでくる。

胸の大きな女性の乳首が見える。いや、これは明らかに服を着ていない。

僕は清美に毎日の報告を欠かさなかった。

僕の作った料理を食べながら、それを熱心に聞いてくれている清美は、僕の事を随分と心配そうに見ていた。

食後には2人で紅茶を飲みながら、映画を見たり、音楽を聴いたりしながら、ゆっくり確実に流れる時間を愉しんでいる。

お風呂に入ると、後は眠るだけ。

僕はお風呂が大嫌いだった。眠る事が大嫌いだからだ。

電気を消すと、清美はいつも僕に抱きついてくる。

何がしたいのかはよくわからないが、僕は下半身に熱いものを感じ、体が火照って仕方が無かった。

僕は清美を押し退けると、そのまま清美は怒った顔で僕に背を向けて眠ってしまう。

それでも僕の体の火照りは静まる事は無く、後日別々の布団で寝られるように清美に言った。


そんな楽しくもなければ辛くもない、平凡でも退屈でもない毎日は嫌いでも好きでもなかった。

ほんの小さな変化に気がつくたびに、僕は何かを思い、その事で何かを失っていくような気がしていた。

変わらない僕と変わっていく世界。

季節の移り変わりや毎日同じ時間に歩く人々も、日々変わっているのだ。

そんな中で、清美も変わった。

朝ごはんを食べない日が続き、僕の話に興味を示さなくなり、帰宅時間も少しずつ遅くなった。

家に帰らない日もあった。僕に文句を言う事も増えた。僕の料理を褒めなくなった。


あの日も清美は帰ってこなかった。朝起きても、清美の姿は無かった。

最近購入した携帯電話というヤツに、メールというヤツがあり、

「今日は早めに帰るから」

とだけ、清美からのメッセージがあった。

何故か酷く嫌な予感がした。

心臓が破裂しそうになり、息が苦しくなった。

僕はその場に倒れこみ、血を吐いた。

血は暖かかった。ニオイは生きている事を感じさせてくれた。

僕は窓を開け、10時半前後にいつも杖をついて歩く老人に向かって、ボーガンを3発打ち込んだ…。

続く。


何だこれwwwwwソッコー終了の悪寒wwwww