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最近、気になるお米の価格ですが、言葉をかえると
「シャリ」という言葉を聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか?
私たちは普段、お寿司の「シャリ」として何気なく使っています。
でも、仏教には「仏舎利(ぶっしゃり)」という言葉があります。
お釈迦さまや高僧の遺骨を「仏舎利」と呼び、それを礼拝する信仰があります。
そして、仏舎利が米粒のように見えることから、米を「シャリ」と呼ぶようになったともいわれています。
ここから私は、ふと思いました。
私たちが毎日食べている「お米」は、単なる食べ物ではなかったのではないか。
日本では昔から、お米は特別な存在でした。
神様へのお供え物になり、祭りや行事にも使われ、収穫したお米を大切にいただいてきました。
一粒のお米にも、自然の恵みと、多くの人の働きが詰まっています。
ところが今、日本では「お米離れ」が進み、農家も米を作り続けることが難しくなっています。
もちろん、時代が変わったのだから仕方がない。
そういう考え方もあると思います。
でも、私はもう一度、お米との関係を考えてみてもいいのではないかと思います。
お米を、私たちの利益のためだけに作るのではなく、お米そのものを大切にする。
食べる人も、作る人も、
「いただきます」と言える心を持つ。
田んぼを守り、自然を守り、一粒のお米を粗末にしない。
それは、昔の日本人が大切にしてきた心でもあるのではないでしょうか。
そして私は、こんなことも考えます。
お米さんから離れていくということは、もしかすると、お釈迦さまの教えからも少しずつ離れていくことなのではないか。
もちろん、お米そのものがお釈迦さまだという意味ではありません。
けれど、お米を大切にする心の中には、
感謝する心、
命をいただく心、
自然を敬う心、
人を思いやる心があります。
それは、仏さまが私たちに伝えてきた大切な心とも、どこかでつながっているように思います。
お米を食べること。
お米を作ること。
田んぼを守ること。
そして、お米を大切にすること。
それは単なる食文化の問題ではなく、
私たちがどんな心で生きるのかという問題なのかもしれません。
もし、私たちが「お米は、ただの食べ物ではない」ということを、もう一度知ることができたなら。
人の心も、身体も、
そして日本の田園風景も、
今とは少し違っていたのかもしれません。
一粒のお米を見たとき、
ただの一粒の米に見えるのか。
それとも、
太陽、雨、大地、農家の人の手、
そして日本の長い歴史まで感じるのか。
見方が変われば、食べるという行為の意味も変わるのかもしれません。
お米を大切にする。
それは、お米だけを守ることではない。
日本の文化を守り、
自然を守り、
人の心を守ることにもつながっているのではないでしょうか。
私は、そう感じています。
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