白坂です、

 

生産性とは何か?

今回は
生産性を、一人・一人個人の生産性ではなく、
会社全体での生産性で考えていきます。

そうすると、
常識的な感覚とは180度:逆の
結論に行き着きます。すなわち、


一人・一人個人の生産性を
追求すればするほど
会社全体の生産性は低下する。


にわかに腑に落ちない結論です。
なので、1つずつ考えを深めて
いきたいと思います。

まず、
一人・一人個別の生産性というのは
どういうことでしょうか?

簡単に言えば、
一人一人が同じ時間で今までよりも
たくさんの仕事をする、ということに
なります。

たとえば、
Aさんは、今までは8時間で8つの
仕事しか完了していなかったのに

・本人の知識・技能など能力が向上したか?
・仕事に使う物が良くなったか?
それとも、
・方法(システム)が改善されたか?

など、
「人」「物」「方法」のいずれか、
または、いずれもの要因で

8時間で10の仕事を完了させられた
としたら、


個人としての生産性は向上した


と判断できます。
だから、一人一人の個人の生産性は
比較的に簡単です。しかも、常識的な
感覚とも合います。ところが、


一人一人、個人の生産性を追求してしまうと
全体の生産性は低下してしまう


という
生産性の結論を、すぐに腑に落とすのは
簡単ではありません。

では、

まず「なぜ、一人一人、個人の生産性を
追求してしまうと全体の生産性は
低下してしまうのでしょうか?」
最大の理由は、


やっている仕事が違うから


です。

組織というのは、
「分業」という形を取っています。

理想的には

・Aさんが得意なAという仕事をして、
・Bさんが得意なBという別の仕事をして、
・Cさんが得意なCという、また別の仕事をして、、、

という状態。
そして、仮に仕事の繋がりとして、


A→ B→ C→・・・


となっているとします。

すなわち、
AさんのAという仕事を受けて、
BさんのBという仕事をする、、、ということです。

もし、
一人・一人・個別に生産性を高めてしまうと
全体では、どうなるでしょうか?


生産性が落ちてしまう


なぜでしょうか?
それは、A・B・C、、、という分業が
違う仕事であれば・あるほど、


仕事を完了させるまでの時間に
バラツキがあるから


です。

仮に、
A→ B→ C、、、という繋がりのある仕事で、

Bという仕事が、最も難易度が高く、
知識・技能・経験が必要とされ、
かつ、完了させるまでに時間がかかる
仕事だとします。

にも関わらず、
AさんがAという仕事の生産性を高め、
一生懸命に仕事をしてしまうと
どうなるでしょうか?


Bさんの所に、次から次に
未完了の仕事が溜まり続けていってしまう


・AさんはAという仕事の生産性を高めた

・Bさんのところに未完了の仕事が溜まり続けて
 Bさんの処理能力が落ちる。(数が増えて
 複雑になれば・なるほど管理にコストがかかるから)

・Cさんのところには完了した仕事が流れて来ず
 手待ちの状態になる。

結果、
Aさんという一人の個人の生産性を追求した結果、
逆に、全体としては生産性が低下してしまった
という矛盾が起きるわけです。

だから、
もし、繋がりのある全体で仕事をする場合、
一人・一人、個別の生産性を追求しては
【いけない】ということになります。

すなわち、
先ほどの例で言えば、

最も時間がかかる仕事をやっている
Bさんの前のAさんは、


一生懸命にやっては【いけない】


ということ、です。

全体の生産性を決めるのは、
最も時間のかかるボトルネック(制約条件)。

だから、
休みなしで仕事をしなければならないのは、
ボトルネック(制約条件)であるBという
工程だけであり、ボトルネック(制約条件)以外は、


ヒマが正解


です。

一人・一人個別の生産性追求という
部分最適ばかりやって来た日本人が
すぐには腑に落とせないのが全体最適。

私たち日本人は、
家庭教育であれ、学校教育であれ、
または、社員教育であれ、


ヒマで良い


という考え方を、ただの1度も
教えてもらったことがありません。

もし
家庭に4人が居たら、4人が4人とも
何らか忙しそうにしているのが正解で
ヒマそうにしている人は何か悪い状態だという
感覚がある。

もし
学校に35人の生徒が居たら、35人が35人とも
何らか忙しそうにしているのが正解で
ヒマそうにしている人は何か悪い状態だという
感覚がある。

もし
会社に100人の社員が居たら、100人が100人とも
何らか忙しそうにしているのが正解で
ヒマそうにしている人は何か悪い状態だという
感覚がある。

だから、
日本の99%は中小企業なわけです。

一人一人の個別の生産性を追求することは
得意なので、一人一人が職人的な働き方は
出来るけれど、


全体最適の考え方で
組織を運営することが出来る人は少ないから


もし部分最適ではなく
全体最適を実現しようとしたら、
忙しいのはボトルネック(制約条件)の工程だけ、が正解。
結果、他の工程全ては


ヒマなのが正解


です。

だから、
全体の生産性を高めようとした時も、
一人一人全員に、そして、全工程を底上げするような
投資をしても意味がない。

・組織で何人の人が働いていても関係がない。
・組織に工程数が幾つあるのかも関係がない。
・組織全体の生産性を決めるのは、ただ1つ。


ボトルネック(制約条件)の工程だけ


だから、
もし、組織全体の生産性を本当に
上げようと思ったら、


ボトルネック(制約条件)に対して
一点集中で「人」「物」「方法」を
投資する必要がある


他の工程のヒマは、とりあえず
ヒマのままで良い

まずは何はともあれボトルネック
(制約条件)を徹底的に活用し、
そして、投資によって能力を上げる

そうして初めて


全体の生産性が上がる


ボトルネック(制約条件)は、
大抵、最も難易度が高く、
かつ、最も付加価値の大きい業務です。

そして、
組織の生産性は、その最も付加価値の大きい
ボトルネック(制約条件)が、どれだけ
稼働するかで全て決まります。

逆の言い方をすれば、
ボトルネック(制約条件)以外の工程は、
ボトルネック(制約条件)にかかる負荷を
いかに小さくするか、、、という支援工程。

ボトルネック(制約条件)への負荷を
出来るだけ小さくするのが目的なのに、
下手に頑張ってしまい、逆に、ボトルネック(制約条件)への
負荷をさらに高めたとしたら、まさに本末転倒。

・分業をしている以上
 仕事の内容に違いがある

・仕事の内容が違う以上、
 完了させるのに必要な
 能力や時間にも違いが出る

・だから、必要な投資量も、
 また、出す付加価値の大きさも違う

その
「違い」を不平等や不公平だと感じる
日本人の常識的な感覚が、日本の99%が
中小企業であり続けている最大の理由。

大企業を経営するためには、
「内容が違う」ならば、
「必要な能力も違い」
「出す成果も違い」、


得られる報酬も違うのが当たり前


ということを腑に落とす必要がある。

部分最適の合計が全体最適に
なるわけではない。

部分・部分の生産性を高め続けたからと言って、
全体の生産性が高まるわけでもない。

もし、
本当に全体の生産性を高めようとしたら、
「違い」を認めることから始まる。


どの工程こそがボトルネック(制約条件)に
なっていて、だからこそ、どこに集中投資を
することが、全体の生産性を上げることに繋がるのか?


教育の場が、
「家庭」だろうが「学校」だろうが
「会社」だろうが、、、

・新卒一括採用

・年功序列

・終身雇用、、、、

「みんな同じ」「みんな平等」、、、
という横並び意識から脱却した
新しい教育が求められている。
すなわち、


特化


みんなが同じことをするのは
社会全体で見て非効率。

それぞれが・ぞれぞれで
得意なことをやる。

そして、

それぞれが得意なことをすれば、
その難易度に違いがあり、
結果、提供する付加価値にも違いが
出ることを、社会全体が許容する。

最も難易度が高く、
最も付加価値が高いことの工程が
最も大きな富を受け取る。それが経済。

経済は平等を実現しない。
公平も実現しない。

だからこそ、
最も大きな富を受け取った企業が、
最も多額の税金を支払う。そして、
経済が創り出した富を政治が再分配する。

経済と政治は、
役割が違う。

経済の役割は、
生産性を向上させ続けること。

その生産性とは
一人一人、個別の生産性ではなく、
全体の生産性を向上させ続けること。
すなわち、

・ボトルネック(制約条件)を発見し、
・ボトルネック(制約条約)を最大限に活用し
・ボトルネック(制約条件)の能力を向上させ続ける

そのために、
もし投資をするというのであれば、


ボトルネックに対してこそ、集中投資をする


生産量はボトルネック(制約条件)で
全て決まります。だからこそ、
集中投資によって、ボトルネック(制約条件)の
能力が向上し続けることが、


社会全体の生産性を向上させ続けます

 

生産性とは何か?

今回は以上です。
本日も文章をお読みくださり感謝しています。
いつも本当にありがとうございます。

白坂慎太郎

 

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