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白坂です、

文章のご確認、感謝しています。

ありがとうございます。

 

まず、

 

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さて、

 

道徳の教材
 

小学6年生の道徳の教科書に『星野君の二塁打』という作品が取り上げられています。

簡単なあらすじを挙げると、、、

・監督は星野君に犠牲バントを命じた
・しかし、打てそうな予感がした星野君は瞬間的に犠牲バントではなく、打った。
・結果、2塁打となり、星野君のこの一打のおかげでチームは勝利。選手権出場を決めた。
・しかし、監督は星野君の選手権での出場を禁止する、、、

(以下、原文より一部引用)

>「みんな、野球はただ勝てばいいんじゃないんだよ。健康な体を作ると同時に、団体競技として、共同の精神を養うものなんだ。ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ。」

>「星野君はいい選手だ。惜しいと思う。しかし、だからといって、ぼくはチームの約束を破り、輪を乱したものを、そのままにしておくわけにはいかない」

>「ぼくは、今度の大会で星野君の出場を禁じたいと思う。そして、しっかりと反省してほしいんだ。そのために、僕らは大会で負けるかもしれない。しかし、それはしかたのないことと、思ってもらうよりしようがない。」

(以上、原文より一部引用)

・・・・・・・・・・・

(以下、教科書より一部引用)

>「学習のみちすじ

  星野君のとった行動を通して、きまりを守り、義務を果たすことの大切さについて考える。

  ・誰もがきまりを守らず、義務を果たさなかったら、どんな世の中になるのでしょう。」

(以上、教科書より一部引用)

・・・・・・・・・・・・・・・


『星野君の二塁打』という作品があるのはいいです。それは、著者の思想の自由です。表現の自由です。どのような考え方も、自由に作品を通じて表明していいものです。問題は、

この『星野君の二塁打』という作品を義務教育の教科書として採用し、かつ星野君のとった行動を、きまりを守らなかった悪い行動であると暗に小学6年生たちを洗脳しようとしている文部科学省の方針です。


義務とは何でしょうか?
日本国憲法にはわずか3つしか表記されていません。
すなわち、

・働く義務
・税を収める義務
・子どもに教育を受けさせる義務

です。

そもそも、国民が最高権力者である主権者であり、人の自由を基本的人権として最大限尊重するという憲法の中になぜか国民の義務があるということそのものが議論に対象になり得ることです。

ただし、この部分に関しては今回は百歩譲ります。日本国民にはみんなが守るべき義務が3つあるとします。

では、

今回、星野君は、一体、何の義務を果さなかったというのでしょうか?監督が少年たちと約束していたことでしょうか?それが守らなければならなかった義務だというのでしょうか?チームを勝利に導き、選手権出場の最大の立役者となった星野君は、監督の指示を守らなかったというだけで社会にとって悪だというのでしょうか?

論理の裏に、「上の立場の者の指示は絶対で、下の立場の者は必ず従う必要がある」という特定の考え方があります。では、「上の立場の者が間違ったらどうするのでしょうか?」その間違った指示に従った下の人間全てが間違うのではないのでしょうか?そうやって、


日本は太平洋戦争に負けたのではないのでしょうか?


上の立場だからと言って、必ずしも正しい判断ができるわけではありません。上の立場だと言っても人間です。日々、悩み・迷い・不安を感じている人間です。いつも・いつも正しい判断をすることができるわけではありません。だから、上の立場の人間の指示は正しい場合もあれば、間違っている場合もあります。

上の立場の指示を守ることが義務で、上の立場の指示を破ったならば義務を破った人間として、断罪されるべき存在なのでしょうか?犠牲の精神が分からない人間は社会にとって悪なのでしょうか?

監督の言うことと違うことをやって勝つくらいだったら、たとえ監督の言うことを守り続けて負けた方がいいという論理なのでしょうか?

今、21世紀です。2018年です。
にもかかわらず、依然としてこのような授業が小学校現場で行われているというのは、正直、信じられません。今回の場合、


監督より星野君の方の判断が良かったというだけ


・監督も星野君もチームの勝利を目指していた。
・チームの勝利のために、監督は犠牲バントが良いと思い、星野君は打った方が良かったと思った
・結果、監督の判断よりも星野君の判断の方が良かった


自分の言うことを聞かなかったというだけで星野君の行動をみんなの前で責めるなどというのは、指導者としては最悪。器の大きさとしては、ゼロ。それこそ、自分のチッポケな自尊心など犠牲にして、星野君をみんなの前で賞賛してこそ指導者。

たとえば、アメリカの大リーグで活躍している選手の中に、誰が犠牲の精神で野球をやっているのでしょうか?いません。全員が全員、


エゴの塊


です。

「ここで打てば今日のヒーローは俺だ」
「見てろ!絶対にホームランを打ってやる!」
「どうだ!やっぱり、俺は凄いだろう!!」

犠牲の精神を知らない大リーガーたちは社会にとって悪なのでしょうか?社会をよくしない人たちなのでしょうか?自分自身が活躍することで結果としてチームの勝利に貢献しながら、子どもたちに夢を与え続けることにつながっていないでしょうか?

今回の場合、
・監督の指示というのは必ず守られなければならない義務なのか?
・監督の指示と違う行動を取って良い結果を出すくらいだったら、たとえ負けたとしても監督の指示を守り続けた方がいいのか?
・ぎせいの精神が分からない人間は本当に社会をよくすることができないのか?


監督より星野君の方の判断が良かったというだけ


『星野君の二塁打』という作品が存在していること自体はいいです。それは著者の精神の自由です。表現の自由です。問題は、その『星野君の二塁打』を義務教育の道徳の教材として採用し、星野君の行動を一方的にきまりを守らなかった悪い行動であるかのように考え方を誘導していること、です。

親にとって子どもを学校に通わせることは義務になっていますが、必ずしも文部科学省下の学校に通わせることが義務になっているわけではありません。

「どの小学校に進学させるか?」

慎重に選びたいものです。
もし将来の子どもの社会での活躍を願うのであれば、
何より、


無限の可能性を持つ自由な心を尊重してあげるのであれば、、、

道徳の教材
 
貴重な時間にて文章をお読みくださり感謝しています。
ありがとうございます。
それでは、また。

白坂慎太郎

 

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