白坂です、


無料プレゼントの受け取りはこちらから
『アウトスタンダーへの6ステップ』(P221)

 

さて、 


劣等感はネガティブで才能はポジティブですが、大元のエネルギーは同じです。


自己重要感を求める欲求


人は、等しく自己重要感を求めています。
その欲求は、食欲・性欲・睡眠欲と同じくらい強く大きいものです。だから、人は等しく「自分で自分を尊重したい」「自分は社会の中で重要な存在だと認識したい」と思っています。
だから、劣等感も才能も、どちらも


社会


の中で生まれるものです。
社会とは、その人にとっての人間関係です。


・幼稚園生にとっては、幼稚園のクラスが社会です。
・小学生にとっては、小学校のクラスが社会です。
・中学生にとっては、中学生のクラスが社会です。


人は、等しく自己重要感を持っています。
そして、その自己重要感を、自分の才能を使って満たそうとします。
自分が得意なことでクラスの中で目立ち、そのことで自己重要感を満たそうとすることです。


だから、劣等感というのは社会の中で自己重要感が大きく下がった
瞬間に作られます。本当はいい方で目立ちたかった。しかし、残念ながら悪い方で目立ってしまった。恥をかいてしまった。なので、その恥をかいたキッカケになったことに対して、劣等感を作ります。


才能というは逆で、社会の中で目立ちたいと思っていて本当に目立てた体験があれば、それが才能開花のキッカケになります。あることのお蔭で目立てた。自己重要感が満たせた。だから、その自己重要感を満たすキッカケになったことに対して、才能を感じられます。ここまでの所で大事な所は


才能は社会の中で開花する


ということです。つまり、才能というのは絶対的ではなく相対的なものだということです。才能が開花するかどうかは、たまたまという運が大きく左右します。ここは、とても大切なので丁寧な説明を試みてみます。


たとえば、足が速い子がいたとします。
その子が、小学校の同じクラスの中でかけっこしたら、1番足が速かったとします。そうすると、自分は足が速いことで本人にとっての社会であるクラスの中では目立てたわけです。自己重要感を満たせました。だから、「自分が足が速い」と、足が速いことに対する才能を感じられます。


ただ、これは、たまたまそのクラスの中で1番足が速かったというだけのことで、相対的なものです。絶対的なことではありません。もしかしたら、別の小学校には彼よりももっと足が速い子がいたかも
しれません。


または、陸上のクラブチームに参加でもすれば、彼はむしろ足が遅い方になってしまうかもしれません。走ることに才能を感じるどころか、劣等感を覚えてしまうかもしれません。つまり、


才能は、最初は勘違いから始まる


ということです。本当に絶対的な才能があったかどうかは誰にも分かりません。ただ、たまたま本人にとっての社会の中で劣等感を感じたり、才能を感じたりすることから始まるものだということです。


勘違いから始まった才能を活かして、将来、プロの陸上選手になれるかもしれません。逆に、勘違いから始まった才能で陸上の道に進んだもののプロにはなれず、走るということに対しては劣等感を覚えながら引退していくかもしれません。同じように、


劣等感も、また幻想である


ということが大事です。本人が所属したクラスは、たまたま足が速い子がたくさん集まっていたかもしれません。そのクラスの中では決して足は速くなかったけれど、一般的には速い方だったかもしれません。しかも、


人は、それぞれ発達速度が違う


これは遺伝子の違いです。つまり、努力・気合・根性ではどうにもならないことの1つです。だから、人は早熟な人もいれば、普通の人もいれば、晩成の人もいます。10才にして将来の道が決まる早熟な天才タイプもいれば、50才を過ぎてやっと自分の道を見い出す晩成型の人もいます。


だから、たまたま小学校の時に何かで恥をかいたとして、そのことで
劣等感を覚えたとしても、それは本当に絶対的な能力として劣っているかどうかは分かりません。早熟型に比べれば普通型の人は劣っているように見えるのは当たり前ですし、普通型に比べて晩成型の人が劣っているように見えるのは当たり前だからです。


劣等感も才能も、本人にとっての社会で生まれる


劣等感があるから本当にその分野が出来ないとは限りません。
過去にそれが出来なかった体験があっても、今からの自分が出来ないことの証明にはなりません。


また、才能を感じているからといって、その分野で本当に1位になれるかも分かりません。たまたま、周囲のレベルがもっと低かっただけで、広い社会の中では全く通用しない技能レベルかもしれません。


だから、「これが苦手だ」というのも幻想ですし、「これが得意だ」というのも幻想です。両方ともが思い込みであり、勘違いです。単純に、


結果的に長く続けられたものが、本当の才能


です。


そうすると、幼児教育というのはハイリスク・ハイリターンの諸刃の剣だということも分かって来ます。本人もかなり出来る分野だったとしても、周囲がさらに出来る子ばっかりだったら、わが子は相対的には出来ない子になってしまい、将来、伸びたかもしれない才能の芽を幼児の内に潰してしまう危険性もあるからです。


もちろんハイリスクはハイリターンですから、出来る子ばかりの中でもわが子がさらに出来て1番になれた場合は、10代のうちに道が決まる天才タイプとして生きて行く可能性もあります。


ただ、繰り返しになりますが、早熟・普通・晩成という発達段階は、努力・根性・気合とは何の関係もない遺伝子の関係なので、出来る子は単に早熟である可能性もあり、出来ない子は単に晩成型である可能性もあることは、親は知っておいた方がいいでしょう。


才能


最も大切なことは、才能があったというのは、たまたま同じ時代を生きる人たちの中で他の人よりも上手く出来る技能を見付けられたということ、です。


かなり高レベルの人たちの中で囲まれていたから才能に気付けずに他の分野に進んだ人もいれば、たまたま周囲に高レベルの人たちがいなくて、「自分には才能がある!」といい意味で勘違いして、その後、努力によってその勘違いを本当の才能にまで育てられた人もいます。


才能は社会の中で開花する


社会というのは、本人にとっての人間関係です。
自分にとっての人間関係の中で、相対的に苦手であれば劣等感になり、相対的に得意であれば才能を感じられます。だから、親が子に対して出来ることがあるとしたら、それは親が子をどのように育てるかではなく、


子どもをどのような人間関係の中に入れてあげるか?


劣等感も才能も、社会の中で生まれます。人間関係が作ります。
両方ともに最初のキッカケは、本人の単なる勘違いです。絶対的なものではなく相対的な単なる幻想です。だから、


結果的に長く続けることが出来たものが、本当の才能


です。10年、20年、30年、、、と、日々、淡々と淡々と続けられたものがあったとしたら、それこそが本当の才能。その人は、努力・根性・気合に関係なく才能を活かしながら日々を過ごしていて、


天職(ライフワーク)を生きています



最後お読みくださり、感謝しています。
ありがとうございます。
それでは、また。


白坂慎太郎


参考教材:

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう―あなたの5つの強みを見出し、活かす

無料プレゼントの受け取りはこちらから
『アウトスタンダーへの6ステップ』(P221)