かつてユーゴスラビアという国がありました。

ストイコビッチとかで有名だった国ですね。彼らが仲が悪かった訳ではないとは思いますがその国は崩壊します。その話を書きたいと思います。

今ユーゴスラビアという国はありません。
セルビア
クロアチア
スロベニア
ボスニア・ヘルツェゴビナ
マケドニア共和国
モンテネグロ

かつてこの6つの国は一つでした。
ですが93年に崩壊して分かれてしまいます。

この国は監督や選手が素晴らしく
オシムは有名ですが
ボラ・ミルティノビッチ
西野さんの前の監督もそうだし

選手は
今だとモドリッチ、ラキティッチ、ジェコ、ピアニッチ、ハンダノビッチ、マティッチとか今でもこの国が喧嘩をせず一つの国であればとは思いますが

ユーゴスラビアが最後のワールドカップの時
監督はオシムさんでした。
彼が監督を引き受けた時はユーゴスラビアはめちゃくちゃでした。
ユーゴスラビアを統一したヨシップ・ブロス・チトーと言う方が死去された時から
各共和国の国の考え方が勃興
にわかに勢力を得て盛んになることを盛んになることを指すようですが

セルビアは俺は考え方あるよ
スロベニアは俺達は金あるから
クロアチアはセルビアもユーゴスラビアも考え方が分からん

各共和国はユーゴスラビアという国から脱退を始めようとします。

そして各共和国は自分達の共和国が祖国だけどユーゴスラビアは祖国ではないからと言いユーゴスラビア代表に加わるなという圧力がかかるようになります。

ある試合で自分達の国を応援せず他の国を応援する。

そんなこと日本のサポーターは絶対しないですよね。

90年のワールドカップの前のテストマッチでも各共和国からのブーイングが絶えず
ユーゴスラビア代表という国を維持することは当然出来なくなる

中でもセルビア人には当たりが強く
なんであいつらを使うんだ?セルビア人が点を決めたら
あれはゴールじゃないオフサイドだと
オシムには結果が間違えている!と記者は叫んでたくらい酷い状況だったようです。

だけどオシムはユーゴスラビア代表というチームを守る為に個人への取材を禁止し自分の選んだ選手の結束を守り

ユーゴスラビア代表は90年のワールドカップに出場します。

スシッチ(ボスニア)
カタネッツ(スロベニア)
ストイコビッチ(セルビア)
サビチェビッチ(モンテネグロ)
ボバンは事件を起こし出場出来ず
プロシネツキなどの名手を擁した彼らは

初戦の西ドイツ戦に挑み敗北します。
オシムには意図があったと言われ
スター選手だけ使ってても機能しないと自国を黙らせる意味があったと言われているらしいです。

そして彼らは予選を突破し
1回戦ストイコビッチの2ゴールでスペイン代表を撃破しベスト8まで勝ち上がります。
彼らを待ち受けていたのはマラドーナを擁するアルゼンチン代表

ここまで満身創痍。中盤の守備の要のカタネッツを怪我。
試合で右サイドバックが退場。
10対11で戦い延長まで戦いPK戦にまで持っていきます。
PK戦で蹴る人を申し出たのはたった2人。色んな説がありますがプロシネツキ、サビチェビッチらしいです。
何故なら蹴って失敗すれば各共和国の民族主義者に殺される危険がある為。
オシムさんはもうそのPK戦は見なかったそうです。

そして彼らはPK戦で敗北し
これが最後のユーゴスラビア代表の輝きとなります。

元々セルビア人とクロアチア人は互いを憎しみ合い5年間命の奪い合いをした。

ユーゴスラビアというのは
南スラブ人の土地という意味らしく
みんな同じスラブ人なのだけど
考え方、言葉が違うので同質性ってものを互いに見出せなかった。
ユーゴスラビアという国はあってもユーゴスラビア人はいなかった。

クロアチアはオーストリアに支配されていた時が長く宗教がセルビア人と合わない。
だけども91年にクロアチアがユーゴスラビアから分離を宣言してもセルビア人はクロアチア国にいるので当然内紛が起きる。
91年から95年の内紛の時に生まれサッカーを始めていたのが今いるルカ・モドリッチという去年クロアチアが準優勝した時のスター選手であります。

で話は変わりますが
92年。ユーロ(ヨーロッパ選手権)でも当然彼らは優勝候補の一つとして上がる。
ただもうユーゴスラビアは限界だった。
クロアチア、スロベニアが独立を宣言し
彼らはユーゴスラビア代表への参加を圧力で拒まれる。
だがクロアチア、スロベニア人選手がいなくとも予選を1敗で通過する。

ただ91年の段階で6つの国のうち
クロアチア、スロベニア、マケドニアは独立を宣言。
ボスニア・ヘルツェゴビナのクロアチア人、ボスニア人も独立を宣言していた。

セルビア人はマケドニアとは友好的であり
スロベニアとはスロベニアが独立を宣言した時に戦争になったが10日くらいで終戦。
クロアチアとは最悪に仲が悪かったいや憎しみ合っていた。

そして92年4月6日にユーゴスラビア代表が運命を迎える。

ユーゴスラビア軍がボスニアの首都サラエヴォを包囲した。
オシムの故郷であるサラエヴォを

ただ代表チームの彼らは仲が悪くはなかった。だがこの事件を機に
スロベニア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナのクロアチア人、ボスニア人
マケドニア人でさえもユーゴスラビア代表というものに参加を拒否する。

なので6つあったユーゴスラビア代表の共和国はセルビアとモンテネグロだけになってしまった。

そしてオシムは辞任。サラエヴォの為と
このような事態になったということでセルビア、モンテネグロの選手も辞退するという動きもあったがオシムが説得した。

92年5月
スウェーデンのストックホルムに着いた時点で3つ通達されたと言われる

国際サッカー連盟、欧州サッカー連盟はユーゴスラビア代表への制裁を受け入れ
全ての国際試合への参加を締め出す。

ユーゴスラビア代表はユーロ92の参加を剥奪

スウェーデン政府はユーゴスラビア代表チーム全ての入国を拒否する

これでユーゴスラビア代表は全てを失った。

そして生まれたのがセルビア・モンテネグロ代表、クロアチア代表、スロベニア代表、マケドニア代表、ボスニアヘルツェゴビナ代表の5つとなるわけです。

とりあえずこの後はのちに書きますが

日本は平和ってことですね。