ヨーロッパ各地で6月だというのに40度超え、45度なんていう猛暑日がやって来た。
どう考えても異常事態である。
パリは、美観規制があり個人宅で窓の外にエアコンの室外機を出せないので基本使えない。
冷却式のを取り入れる事は出来るが、それもスペースと費用が莫大なので、ほぼ不可能に近い。
細部までこだわりを持ったこの美しい街も、近い将来そんな事を言えない状況になり、室外機で街中の窓が覆われる日が来てしまうのだろうか?
「昔はこんなじゃなかった。」
暑い夏がそれでも記憶として豊かに素敵だったのは、いったい、いつ頃までの事だったんだろうか?
朝顔、海水浴、甲子園夏の高校野球大会。
「かちわり氷」を買って観戦し、氷の冷たさと気温の暑さを楽しめたのは、子供だったから?
庭の線香花火も縁側でスイカを食べるのも、蚊取り線香の香りと花火の炎と一緒に嬉しい記憶として確実に残っているし、風鈴の音だけで、本当に少し涼しく思えた。
今では、そういう情緒を持って夏を満喫するどころではないレベルの猛暑になっている。
世界各地で死者も出る程、地球温暖化は大問題だ。
こうして、人の感覚も少しづつ侵され変化を余儀なくされている。
食べ物の味もしかり、ブームが「激辛」も少々の辛さでは満足行か無くなってくる。
外食に頼ってばかりいるうちに、人々の味覚は確実に麻痺してきている。
みんなが「美味しい」というB級グルメも、25年前の同じような物を比べても、今では何倍も濃い味になっているように思うのは、俺一人?
「そんなに人気なら」とトライしてみたXXXチキンは、調味料の味しかしないグニュグニュの得体の知れない物だった。
それ以上の驚きはこれを美味しいと感じ、大ヒット商品にまで押し上げた大量の消費者達がいるという事実だ。
味覚は益々鈍感になり、反比例してアレルギーはどんどん敏感になって蔓延している。
ストイックばかりを推進しているわけでは無いけれど、どんな事でも自分の考えや感覚を信じられる人であり続けたい。
それは、政治の世界しかり。
自分の考えをきちんと持って、物事に対自し自力で判断し決断出来る力を持ち続けたいと強く思う。
ケニアのサバンナに行った時、同行してくれたマサイの人達と出会い、自分達(現代人)は文明人だという誤った論理を持っていたが完全に覆された。
実際その場に置いてきぼりにされると直ぐさま、動物に襲われるか、食べ物を見つけられないか、気候に順応出来ないか、生命が簡単に絶たれる弱い一つの小さな生き物でしかない自分達の存在こそが真実なんだと実感させられた。
本当の意味で、強くならねばいけない 。
それは、何事に対しても、自分を信じて考え判断する事から始まるんだと思う。