荻野吟子さんの3回目。

 

 医師国家試験を受けるだけの荻野さん。

当時は『医術開業試験』として前期・後期と2回に分けて試験をしていましたので

それを受験するのみです。

 

 誰にも負けない学力と技術力を自負していた荻野さんでしたが

 なんと試験が受けられない事態に。

 土俵にすら上がれないのです。

 

 東京に申請するも願書受付拒否、

 では地元の埼玉。そこでも拒否。

 では監督官庁の内務省へ提出。そこでも拒否。

 

 理由は『女性が医師になることは前例がない』から。

 いつの世も同じ流れです。

 

 しかし、荻野さんはあきらめません。

 

 『前例』を調べます。

 するとあったのです。

 はるか昔の奈良時代に。

 

 荻野さんはそれを根拠に申請。目出度く受理され前後期とも合格し、東京湯島で産婦人科を開業します。

 数え35歳。医師を志して15年後のことでした。

 

 男は『医師に女は要らぬ』と前例なしをタテにして拒絶していましたが、実際開業すると大繁盛。

 女性は『女医を必要としていた』ことを証明しました。

 屈辱的な経験をバネに女医となった荻野さんはその後、女性の地位向上のため数々の活動をしていきます。

 

 荻野さんは言います。

 

『人と同じような生活や心を求めて

 人と違うことを成し遂げられるわけがない。』

 

 社会が変わるのを待ったり、

 男の意識が変わるのを待つのではなく、

 女性が意識を変えて自立していかなくては何も変わらない、と。

 

 その後荻野さんはクリスチャンの洗礼を受け女性に寄り添う人生を送ります。

 前例がなければ前例をつくる。

 身をもって実現させた

医師資格を自分だけでなく後続する女性のために『正々堂々』と前例にした女性でした。

 

 以上荻野吟子さんについてお話をしてまいりました。

 自らの『屈辱感』をバネに医師になりましたが、 

 より広い視野でみれば女性の『存在価値』という『いのち』を高めたい。

 それが荻野さんの大望だったと推察します。

 

 制度的平等の確保はもちろん重要ですが、

 それ以上に『屈辱感』に甘んじることのなく

 自らの道を切り拓く女性のモデルが荻野さんでした。

 

 荻野さんの場合は苛酷な状況下を克服することで運氣が上がる蓄積と準備の人。

 自分に合った形で実践していく。

 

 その資質に沿った生き方であったということだと思います。

 令和の今においても決して色褪せることのない力強く、

 自らの適財適所を切り拓いた崇高な生き方でありました。

 

 

 

 自らの適財適所は自分への愛から。

 文字へ傾ける3秒を大切にしませんか。

 

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