先日、宗派のある会議に出席しました。

終わって懇親会があり、ある教区の方と飲みながら話していたら、「どうもうちの県(或いは市)の学校(或いは教育委員会)に、ある保護者が、給食時にいただきます、ごちそうさまの唱和をやめさせたいという要望がだされたらしい」という話を耳にしました。

 

このことは、以前にも新聞に取り上げられたこともあった記憶があるし、久しぶりに考えさせられるような気になりました。

 

記憶では、主張は

・給食費を払っているから、頂いていない。

・学校といういう公的な場所で、宗教儀礼的な「いただきます」、「ごちそうさま」の唱和はいかがなことか。

ということだと思います。

 

最初に個人的な見解を申せば、「いただきます」、「ごちそうさま」は生活習慣にもなっている大切な文化である。なお現在は日本文化圏以外の国や宗教の中で育った子も教室にいるので、それぞれ身に着けた作法でいただくのも認めていいのかな、と思うのです。

 

個人的ですが、私の生まれ育った家庭(寺ではない)では、毎回でなくてもいただきます、ごちそうさま、は言っていましたし、親や祖父母からもそう教えられました。

 

特に高校生の頃薬師寺の青年衆での生活で、高田好胤管長から食事の大切さを教わり、また社会に出たり、一人暮らし、自炊の生活の中から、いただきます、ごちそうさまの有難さがしみじみと感じられました。

 

今日は、教区内の会議に出席するため、道中、昼食時にラーメン屋に入りましたが、意識して見ていると、ラーメンを出された時に「ありがとう」「いただきます」、支払いの時に「ありがとう」とか「ごちそうさま」と言っている人が何人かいました。

 

さて、「いただきます」、「ごちそうさまは」は誰に対しての言葉でしょうか。作ってくれた人?、運んできてくれた人?。いや、「誰に対して」という聞き方がそもそも間違いですね。

 

いただきます。農家の方から時々聞いたことですが「「米」という漢字があるやろ。分解してみい。八十八や。八十八の手間、苦労の結晶や」。米という漢字の成り立ちは調べればこれとは違うことがわかります。だけど農家の仕事を見てれば、嘘でも誇張でもありません。農家の仕事だけではありません。太陽の光、水、空気などいろんな条件も助けています。魚や肉、野菜もいのちをいただきます。

 

ごちそうさま。これは「ご馳走様」。収穫されたものはトラックに載って、市場とかスーパーに届く、そしてそれぞれの自宅に、現在では新鮮な状態で届けられます。多くの人が新鮮なうちに届けたいと走っています。料理人も最高な状態で客に出すため心配りをする。料亭などでは客をお迎えする人たちも打ち水したりお香をたいたり、掃除したり忙しい。それも一流の料理人になるための修行と聞きます。トラックを作るメーカーも耐久性のある車を作ろうとしているでしょう。「ご馳走」というホテルや旅館の立派な食事を思い浮かべる方も多いと思います。しかしことばの由来は、走って、育て、お迎えの準備をし、届けることでしょう。

 

「いただきます」、「ごちそうさま」の消滅(大げさな表現ですが)は、生活習慣の衰退です。もっと言えば言葉が軽く扱われたいる。家、親子の関係性の薄さを象徴しているのではないでしょうか。

 

極端な例ですが、お母さん(或いはお父さん)が忙しくて、夕食は冷凍食品。これは自分の収入で購入したから、「いただきます」、「ごちそうさま」は言わなくていい。そういう状況を想像しましょう。「いただきます」、「ごちそうさま」以外に「ありがとう」も言われない食卓を想像しましょう。それでいいのでしょうか?

 

そんなことを、別な機会に話したことがあるのですが「一人暮らしだからいうこともない」、「子どもがいないから、独身だから意識したこともない」とおっしゃる方も多かったです。

 

「いただきます」、「ごちそうさま」と声に出すか出さないか、そういうことではなく目に見えないおかげさまを感じられるかどうか、そういうことを考えたいと思います。

 

落ちですが、何人かで飲みに行った会計で

店員さんに「ご馳走様」と言ったつもりが、

仲間が「今日も割り勘」ね。