ネットで京都新聞の記事を目にした。

以下がその記事



「袈裟に尿かけられる嫌がらせ」 真宗大谷派の嘱託職員、慰謝料求め教団を提訴

2021年4月15日 


 真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区)で働いていた嘱託職員が、上司や同僚から嫌がらせを受けたとして15日までに、同教団を相手取り、慰謝料など300万円の損害賠償を求める訴えを京都地裁に起こした。

 訴状によると、嘱託職員は2013年4月から総務部兼内事部で主に筆耕業務に従事していたが、上司や同僚から「気持ち悪い字」と言われ、書いた紙を投げつけられたり、無視や、袈裟(けさ)に尿をかけられたりする嫌がらせを受けた。上司に相談したが改善に向けた姿勢がみえず、職員は抑うつ状態になって18年2月ごろに休職した。同教団は使用者責任があり、嫌がらせを是正する措置を怠ったと主張する。

 真宗大谷派は「事実関係に誤りがある上、原告の申し出には真摯(しんし)に対応し、職場環境の調整に努めてきた。裁判では、当派が認識する事実関係をもとに、宗派としての正当性を主張していく」とコメントした。



大谷派の一住職として、痛む問題である。

パワハラを肯定するつもりはない。私も役僧だった頃は叱られることが多々あった。その時は耐えられないと思うこともあったが、それは愛情と、どこかで人格を認めてくれているという温かさも同時に感じていた。

パワハラとなるのは、愛情、承認の欠如だろう。


この記事で問題なのはパワハラや嫌がらせもそうだが、「袈裟に尿をかけられた』という点。


袈裟は種類は多いが、衣の上にまとうもの。釈尊の教えと生き方を象徴している。


真宗以外では袈裟をまとう前や儀式の前に袈裟を頂戴し搭袈裟偈を称える。

大哉解脱服

無相福田衣

披奉如来教

広度諸衆生


真宗でも、トイレ、洗面等は袈裟を外す。丁寧に畳、たたみや床の上に直接置かない。その扱いには非常にうるさいほど注意を受けたものだ。


尿をかけるなどもってのほか、宗門、仏教徒の本質に関わる問題だろう。


その人との人間関係などは、思うところがあっても袈裟には敬意を表すのが仏教徒だろう。


袈裟でなくても、ご門徒さんの略肩衣でも同じである。


他人事ではなく、自分が何故衣を着ているのか、僧侶になったのか、そういうことが問われることは勿論である。


ただ、感じることは、教団で先生方が時々言われる「露悪的な生き方がいい」ということも、全体の吟味を通さず、一言のみが独り歩きしてしまうこと。


強烈な一言と出会うことによって道が定まることもあるが、その言葉を日暮らしの中でどう念じてゆくのか。それは開き直りではなくて人生の悲しさ痛みから出てくるのだろう。どんなことでも露悪的に振る舞えばいいということとは違うような気がする。


袈裟。日々のお朝事など、ご門徒さんの目に触れないところでも着用するもの。その時の姿勢、扱いが問われているのだろう。