南無阿弥陀仏、念仏の教えに生きられた先生方は、よく「初事」という言葉で、本当の自分に出会えた喜び感動を表現してくださいます。

 

老病や身に起こる災難災害にあわれても初事として、そこから改めて出直してゆく力をいただいてきました。

 

私たちは、年を重ねることは経験を重ねることです。経験を重ねればそこには快不快・善悪・楽苦などの判断もついてきます。必然的に快を求め不快を避け、善を求め悪を避け、楽を求め苦を避けようとします。

成長するにつれて、経験する前からよくないことを避けようとしますし、良いことを求めようと経験の取捨選択をします。

 

ですが選べる間はまだいいのですが、突然のできごとは選びようがありません。突然病気になる、痛みに襲われる。災害にあう、事故にあうなど不測の事態は多々あります。

 

初事として受け止めることなんてなかなかできません。

 

ではなぜそのように初事として受け止めてきたのでしょうか?

 

思うに、それは快不快・善悪・楽苦などの判断が起こる以前の何もない純粋な地点に立つからでしょう。これは禅家のことになりますが、臨済宗の妙心寺の開基となられた関山慧玄は「慧玄が這裏に生死なし」という言葉を残されています。誰もが生を求め死を厭います。生死の対立によって生死の苦しみが生まれます。しかしその対立・善悪という判断以前の純粋な心に立てば「わが這裏に生死なし」でしょう。

 

浄土門では浄土という、純粋ないのちの故郷、個人を超えたいのちの故郷、こころの場を求めることで、自分の揺れ動く心を拠り所としない生活を築いてきました。

 

病が起これば治そうとすればよい。死ぬときは苦しくても穏やかでもどちらでもよい。逆境であっても一筋の光がある。

 

そのことを日々の生活でその都度その都度学んでゆきたいと思います。

 

教えを学ぶことは理解するということもありましょうが、大切なことは出会った言葉を繰り返し繰り返し思い起こしてゆくことだといただいています。