親鸞聖人の思想は、真宗の僧侶だけではなく、多くの文筆家や思想家が語っておられます。

僧侶では、真宗以外では、臨済宗の松原泰道氏、山田無文氏が感銘深く語っておられます。

その場合、親鸞聖人の『教行信証』、『和讃』、『歎異抄』などのお言葉を引かれることが多いのです。

しかし、驚いたことに、曹洞宗では『親鸞聖人 五ヵ条要文』を取り上げる方がいらっしゃるそうです。

『親鸞聖人 五ヵ条要文』、私は聞いたこともありませんでした。そこで検索してみたら書籍で2冊見つかりました。
1冊は曹洞宗の井上義衍氏の提唱録、もう1冊は写真の可藤豊文氏の著作。可藤氏は真宗関係の学校で教えておられるそうです。
それ以外見いだせませんでした。

親鸞聖人 五ヵ条要文は、恐らく真宗の学者さんでも知られていないと思います。
どこで発見されたのかもはっきりしない、原書もないらしい。昔の講義録にも登場しない。親鸞聖人によって書かれたものではないと思います。

真宗では知られていないものを、70年ほど前に曹洞宗の井上義衍氏が真宗門徒に提唱していますから、恐らく曹洞宗系で、親鸞聖人に近い人の手によって書かれたのだと思います。禅の見性に近い立場でしょうか。

可藤氏の著作、これから読み始めます。ざっと見た感じでは大谷派の近代教学からは異質です。しかし人間にとって宗教とは何かを問うとき示唆に富むものがありそうです。

最後に五ヵ条要文の本文を載せておきます。

親鸞聖人五ヶ条要文・全文

第一章
我が宗において自力を捨てて他力を取るといふは、人の貪、瞋、痴の三毒に惹かるる剛強の自力を捨てて、無明の煩悩に汚されざる明明たる本心に基づくということなり。
仮に教ゆる所の方便を頼んで、心を行願に用ひず、称名念仏のみを所作とせば、永劫を経るとも仏果に至り難し。
必ず仏は遠きにあらず、還って我が心に立ち進むべきこと。

第二章
一向一心の宗旨なりとて、他宗に耳をふたげ、我が宗に偏頗すること誠に愚痴の至りなり。
此の如く修行するものは、心狭く人にも疎まれ、法にも背くことなり。
一向一心といふは、生死善悪を離れ、神通加持にも心をよせず、自他差別なき一心といふことなり。
花を花と見、月を月と見る。只そのままの心、即心仏性なり。この外何事かあらん。
悪しく心得て、深きに陥ることあさましき次第なり。

第三章
常々阿弥陀仏と唱えて往生を願ふ。その阿弥陀仏とは、我が心の異名なり。
然あれば念仏は、我が心を呼び返し呼び返し、散乱の心を止むるがための方便なり。
斯の如く念仏修行の心を知るものは、心もさながら朗らかなり。

第四章
雑行を止めよといふことは、愚痴の凡夫には、万行を措し置いて、只阿弥陀仏の名号一遍に志深ければ、必ず極楽の国に生るること疑いなしと教ゆるを誘引の媒となすなり。
又、信心ある人に言ふ、只我が心を明らむ外は雑行なり。
この雑行を止めよと教え諌むるなり。

第五章
我が宗は菩薩自受用に結縁し、愍みを心に含み、魚肉禁戒も持たず、男女道俗も席を同じうして、柔和を以って殊勝を抱き、慈悲を以って行とせば、如来の本願に漏れず、永くこの生を異類中行すべきなり。
あなかしこ。