先日、臨済宗のお寺で坐禅の指導を受けてきました。

 

真宗と臨済宗。一般的には他力と自力と正反対の宗派のように思われています。称名念仏は易行道、坐禅は難行道と対立的に考えられています。

 

しかし真宗の僧侶であっても坐禅に縁のある方は多く、私の最初の師僧も時々椅子に座りながら坐禅をしていましたし、私も勧められました。

 

一方、臨済宗では松原泰道師に『わたしの歎異抄入門』の著作もあり、山田無文師の著作も必ず親鸞聖人のお言葉にも触れられています。浄土真宗本願寺派の大原性実師との対談『禅と念仏』もあります。

いずれも対立ではなく、深まれば必ず分かるということがあります。臨済禅を深めれば親鸞聖人も最澄も分かる、分からなければ本物ではないという気迫も感じます。

 

大切なことは念仏を手段として仏という果(目的)に到達するのではなく、念仏の信そのものが、すでに摂取不捨の慈悲と一つになることでしょう。その阿弥陀の慈悲は自分と離れてはいないけれども、自分の不純な心を超えているので、「如来よりたまわりたる信」というのでありましょう。

親鸞聖人は浄土に生まれることを、「法性のみやこへかえる」、「法身ともうす仏になるなり」と言います。純粋ないのちそのもの、いのちの故郷に帰る。

禅もおそらく、無位の真人、本来の面目ということで、そのようなことを叫んでいるのではないでしょうか。坐禅をして仏になるとか、何かを得るのではなく坐禅そのことが大事だと教わりました

 

さて結跏趺坐で座ってみて、足の痛みはありますが姿勢は意外なほど安定します。呼吸も楽です。ただ最初、心は呼吸を数えることに囚われたり、周りの方の姿が気になったりします。雑念は追わないと言われました。3回目は一瞬と言えば大げさですが、時間を忘れるくらいでした。

 

坐禅の本は数多くあります、坐禅の効果を説くものもあります。しかし坐禅は何かの役に立たせるなどという、自分の心の囚われから離れること。やはり師に出会い教えていただくことが大事だと思います。