本能寺からお玉ヶ池へ ~その㉖~
おもしろや 今年の春も旅の空(芭蕉)
春・・・・・・「本能寺からお玉ヶ池へ」の道行も6度めの春です。
思えば随分と永き旅路になりました。
駒込は 一富士 二鷹 三茄子(詠人知らず)
初夢で有名なこの句の「富士」は、駒込富士神社、「鷹」は駒込鷹匠屋敷、「茄子」は駒込名産だった茄子を詠んでいるそうです。また茄子は、私の出生地・伊賀にも関わりがあるようです。「一富士二鷹三茄子」を「一に富士、二に鷹の羽の打ち違い、三に名をなす伊賀の仇討ち」と読めば「富士」が曽我兄弟の仇討ちがあった場所、「鷹の羽の打ち違い」は赤穂事件の浅野家の家紋=違い鷹の羽、「茄子」は「伊賀上野鍵屋の仇討」で荒木又右衛門が「名を成す」ことを指すと云うのです。荒木又右衛門は大和郡山藩の剣術師範ですが、又右衛門の妻の弟(で父の同僚の長男)が弟の仇を討つ助太刀をしたのです。伊賀との関りで言えば、又右衛門の父は、伊賀の藩主・藤堂高虎に仕えたことがあります。「鍵屋の仇討ち」は、後に歌舞伎&文楽「伊賀越道中双六」として上演され、人気を博しました。
伊賀と云えば芭蕉さんです。芭蕉さんが伊賀の茄子を詠んだ句があります。茄子が実を着けるのは夏ですが、この句は、早春に蒔いた「茄子種」が芽吹いた「二葉」を読んでいて、季語は「春雨」です。
春雨や 二葉に萌ゆる 茄子種 (芭蕉)
【30】小石川竹早町
1689年(元禄2年)春弥生(新暦5月)に江戸を発った芭蕉さんの「奥の細道」の旅は、卯月(新暦6月)に白河の関を越えました。(尤も当時関の跡が何処かは判らなかったようです。)卯の花の盛です。芭蕉さんは、2年前に江戸(の其角の家)で卯の花の句を詠みましたが、「奥の細道」に採用したのは曾良の句でした。「かざし」は簪のことです。
卯の花を かざしに 関の晴れ着かな (河合曾良)
もちすり
白河の関を越えて10日、芭蕉さんは、文知摺観音(普門院@福島市山口文字摺)を訪ねます。歌枕「信夫文知摺」の「しのぶもぢ摺の石」(次頁三浦謹之介談話参照)を尋ねての旅でした。その石を見た芭蕉さんは、田植えをする村娘の仕草に古の「しのぶもぢ摺」の手捌きを重ねて一句を詠みました。
早苗とる 手もとや 昔しのぶ摺 (芭蕉)
芭蕉さんは、その後「月の輪の渡し」で阿武隈川を渡って西へ向かいましたが、文知摺観音から北東に半里ほどゆくと、高成田村(現・福島県伊達市保原町高成田)に出ます。
米沢藩領だった(高成田を含む)保原は、「奥の細道」の頃には天領でした。天領になって半世紀になろうとする頃、米沢藩士・三浦某は、米沢で何らかの不都合があって旧領・高成田村に移住し、其の嫡男・良庵は村医者になりました。医家・三浦家の始まりです。二代目・良純には、有恒、道生、良達と云う3人の息子がおり、3人とも医者になりました。この兄弟が何所で医学を学んだのかは伝わっていませんが、米沢藩の好生堂(@山形県米沢市中央2丁目。)だったのではないでしょうか?

好生堂と三浦家のご縁は、世紀を跨いだ不思議なものがあります。好生堂で学んだ(のに医師にならず官僚、政治家になった)平田東助の孫・玲子は、好生堂で学んだ三浦道生の孫・三浦義
彰の妻になりました。
三浦有恒(1812~1892)は、家業を弟に譲って福島藩医になります。医家・三浦家の三代目となった道生の下に高成田村の少年・佐久間良庵(8歳)が入門したのは1857年(安政4年)のことでした。良庵の才能を見込んだ道生は、良庵を養子とし、米沢の好生堂に入学させます。
ところが1864年(元治元年。道生60歳時)、道生に嫡男が誕生し、謹之助と名付けられました。医家・三浦家の四代目に当ります。すると(?)良庵は、(有恒同様福島藩医になっていた)良達の養子に入ります。良庵は三浦省軒(1849~1890)と改名して福島藩医になり、江戸の(伊東玄朴の)象先堂で学ぶことになりました。
福島藩が戊辰戦争で敗れ、減封の上三河国重原藩(@愛知県知立市、刈谷市etc)へ転封になると、三浦省軒は(三河に移らず、)その年(1869年)開校した(お玉ヶ池種痘所の後身=)大学東校に入学します。省軒が卒業した時大学東校は「東京大学医学部」になっていて、その第一期生になります。この頃省軒は、飯田町の義伯父・三浦有恒の家(@千代田区富士見町一丁目)に下宿していました。酷く申し遅れましたが、三浦有恒は三宅艮斎や坪井信道(二代目)と並んでお玉ヶ池種痘所の「資金拠出者」に加わった人です。またその頃省軒は、(当時ベストセラーだった)福沢諭吉の「学問のすすめ」を甥の三浦謹之助(1864~1950)に贈り、その本に触発された謹之助は医学の道への志を固めたと云います。
東大卒業後省軒は、熊本医学校(現・熊本大学医学部)、新潟医学校(現・新潟大学医学部)等の校長や、福岡県立病院(現・九州大学病院)、山口県立病院(現・山口赤十字病院)の院長、後に宮内省侍医を務め、1888年(明治21年)、東京府小石川区小石川竹原町(現・文京区小石川4丁目)で開業します。そして1896年(明治29年)省軒は、樋口一葉の最期を看取ることになりました。更にその16年後、石川啄木(1886~1912)の(臨終には間に合いませんでしたが)死亡診断書を書いたのも三浦省軒です。
省軒の甥・謹之助も高成田村の医家・三浦家の生まれです。謹之助は後に故郷のことをこう語っています。
「・・・・・(福島から)川を渡って私の村まで行くには山を一つ越さなければならない。その山まで行く途中に「文字摺観音」という観音様があります。その観音様は百人一首にもあります河原左大臣の和歌、みちのくの しのぶもぢずり たれゆえに みぞれそめにし われならなくに
というあの有名な歌を刻んだ碑がかたわらにあるところからきているのです。そこに大きな池がありましてね。池の端に大きな石がありました。その石は石碑とは別なんですが、その石を若い青い生麦でこすると死んだ人の顔がうつるという伝説があるのです。それで、昔、麦の育ちかけたのを人が来て取って、それでこするんで、百姓が困って、その石を池の中に沈めてしまった。
その石が今でも池の中にあるんです。」

謹之助は、西南戦争が勃発した年(=東京大学誕生の年)に「西郷軍が東京に攻めてくるかもしれないので危険だ」という周囲の忠告を振り切って(省軒に倣って?)出来立て(?)の東大医学部入学を目指して上京し、伯父の有恒宅に下宿します。
1878年(明治11年)東京大学医学部予科に、1883年(明治16年)医学部本科に入学した謹之助は1887年(明治20年)に卒業し、(卒業年度での留学がかなわなかったため)エルブィン・フォン・ベルツ教授の助手になりました。翌年も国費留学の番が回ってこなかったので、(帝国大学医科大学の初代学長になった)三宅秀の差金で(「宮廷外交」の一つですが、国費ではなく三浦秀がかって仕えた加賀藩主前田家のスポンサーになった)有栖川宮威仁親王(=前田家15代・前田利嗣の妹・慰子の夫)の訪欧の随行医師として1889年(明治22年)アメリカ・フランス・イギリスに渡り、続いて翌年私費でドイツ・フランスに留学しました。この時の留学費用を出したのは、(実家の父・道生ではなく)謹之助を婿にと見込んだ三宅秀です。謹之助は、1892年(明治25年)フランスでジャン・マルタン・シャルコー(1825~1893)に師事しました。その7年前、あのジグモンド・フロイト(1856~1939)がシャルコーの下に留学していましたから、三浦謹之助はフロイトの弟弟子にあたります(か?)。
1892年(明治25年)に帰国した三浦謹之助は、(2年前に医科大学学長を退き、この年小石川竹早町の三浦省軒宅の隣に引っ越した(=お玉ヶ池種痘所の「資金拠出者」の息子と甥とが隣同士になった)三宅秀の長女・教と結婚し、翌年医科大学講師に就き、(お玉ヶ池種痘所の後身である)医科大学第2医院の診療も担当しました。1895年(明治28年)三浦謹之助は、内科学教授となります。

余り知られていませんが、現在の「日本精神神経学会」は1935年(昭和10年)に「日本神経學会」が改称した学会です。そこで(?)日本神経学会の公式サイトを見てみましょう。
「・・・・・日本における本格的神経学の研究と実践、および神経学の学会の源流は、1902年に設立された「第一次}日本神経學会にまで遡ることができる。・・・・・発起人は、東京帝国大学内科学第一講座教授の三浦謹之助と同精神医学科教授の呉秀三であった。三浦はドイツのErbとフランスのCharcotの下で神経学を学び、日本の神経学の祖と呼ばれている。」
そう、日本神経學会を創ったのは、「日本の神経医学の父」と云われる呉秀三と「日本の神経学の祖」三浦謹之助の二人だったのです。1924年(大正⒔年)に東京帝国大学を定年退官した三浦謹之助は、翌年(関東大震災のアメリカからの義援金で創られた)同愛記念病院の院長に迎えられ1945年(昭和20年)迄務めました。
三浦謹之助の患者には、明治天皇、伊藤博文、岩崎弥太郎等歴史上の人物が多数居ましたが、(晩年の)福沢諭吉もその一人です。1924年(大正⒔年)2月、脳出血で逝去した諭吉を看取ったのは、少年時代に「学問のすすめ」で医学への志を懐かせて貰った三浦謹之助でした。
1950年(昭和25年)10月10日夕刻、請われて雨の中を近所の知人宅へ往診に出た三浦謹之助は、幾らも歩かないうちに路上で倒れ、最寄りの三楽病院に運ばれましたが、その日の夜半に息を引き取りました。享年86.三浦謹之助は【26】でも述べたように甥の三宅仁の執刀で病理解剖され、死因は福沢諭吉と同じく脳出血でした。(三浦謹之助の方は、「脳橋出血」と出血部位迄公表されています。)
この回「了」
