津々堂のたわごと日録

津々堂のたわごと日録

ほぼほぼ「肥後細川藩」命、その他諸々のたわごと・・・
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        本能寺からお玉ヶ池へ ~その㉖~ 

                医療法人社団欣助会‐吉祥寺病院 医師・西岡 暁
                                                                       

  おもしろや 今年の春も旅の空(芭蕉)

 

 春・・・・・・「本能寺からお玉ヶ池へ」の道行も6度めの春です。

思えば随分と永き旅路になりました。


  駒込は 一富士 二鷹 三茄子(詠人知らず)

 

 初夢で有名なこの句の「富士」は、駒込富士神社、「鷹」は駒込鷹匠屋敷、「茄子」は駒込名産だった茄子を詠んでいるそうです。また茄子は、私の出生地・伊賀にも関わりがあるようです。「一富士二鷹三茄子」を「一に富士、二に鷹の羽の打ち違い、三に名をなす伊賀の仇討ち」と読めば「富士」が曽我兄弟の仇討ちがあった場所、「鷹の羽の打ち違い」は赤穂事件の浅野家の家紋=違い鷹の羽、「茄子」は「伊賀上野鍵屋の仇討」で荒木又右衛門が「名を成す」ことを指すと云うのです。荒木又右衛門は大和郡山藩の剣術師範ですが、又右衛門の妻の弟(で父の同僚の長男)が弟の仇を討つ助太刀をしたのです。伊賀との関りで言えば、又右衛門の父は、伊賀の藩主・藤堂高虎に仕えたことがあります。「鍵屋の仇討ち」は、後に歌舞伎&文楽「伊賀越道中双六」として上演され、人気を博しました。
 伊賀と云えば芭蕉さんです。芭蕉さんが伊賀の茄子を詠んだ句があります。茄子が実を着けるのは夏ですが、この句は、早春に蒔いた「茄子種」が芽吹いた「二葉」を読んでいて、季語は「春雨」です。
  春雨や 二葉に萌ゆる 茄子種 (芭蕉)

 

【30】小石川竹早町

 

 1689年(元禄2年)春弥生(新暦5月)に江戸を発った芭蕉さんの「奥の細道」の旅は、卯月(新暦6月)に白河の関を越えました。(尤も当時関の跡が何処かは判らなかったようです。)卯の花の盛です。芭蕉さんは、2年前に江戸(の其角の家)で卯の花の句を詠みましたが、「奥の細道」に採用したのは曾良の句でした。「かざし」は簪のことです。

 

  卯の花を かざしに 関の晴れ着かな (河合曾良)

                   もちすり

 白河の関を越えて10日、芭蕉さんは、文知摺観音(普門院@福島市山口文字摺)を訪ねます。歌枕「信夫文知摺」の「しのぶもぢ摺の石」(次頁三浦謹之介談話参照)を尋ねての旅でした。その石を見た芭蕉さんは、田植えをする村娘の仕草に古の「しのぶもぢ摺」の手捌きを重ねて一句を詠みました。


  早苗とる 手もとや 昔しのぶ摺 (芭蕉)

 

 芭蕉さんは、その後「月の輪の渡し」で阿武隈川を渡って西へ向かいましたが、文知摺観音から北東に半里ほどゆくと、高成田村(現・福島県伊達市保原町高成田)に出ます。
米沢藩領だった(高成田を含む)保原は、「奥の細道」の頃には天領でした。天領になって半世紀になろうとする頃、米沢藩士・三浦某は、米沢で何らかの不都合があって旧領・高成田村に移住し、其の嫡男・良庵は村医者になりました。医家・三浦家の始まりです。二代目・良純には、有恒、道生、良達と云う3人の息子がおり、3人とも医者になりました。この兄弟が何所で医学を学んだのかは伝わっていませんが、米沢藩の好生堂(@山形県米沢市中央2丁目。)だったのではないでしょうか?
                                   

 好生堂と三浦家のご縁は、世紀を跨いだ不思議なものがあります。好生堂で学んだ(のに医師にならず官僚、政治家になった)平田東助の孫・玲子は、好生堂で学んだ三浦道生の孫・三浦義
彰の妻になりました。
 三浦有恒(1812~1892)は、家業を弟に譲って福島藩医になります。医家・三浦家の三代目となった道生の下に高成田村の少年・佐久間良庵(8歳)が入門したのは1857年(安政4年)のことでした。良庵の才能を見込んだ道生は、良庵を養子とし、米沢の好生堂に入学させます。
ところが1864年(元治元年。道生60歳時)、道生に嫡男が誕生し、謹之助と名付けられました。医家・三浦家の四代目に当ります。すると(?)良庵は、(有恒同様福島藩医になっていた)良達の養子に入ります。良庵は三浦省軒(1849~1890)と改名して福島藩医になり、江戸の(伊東玄朴の)象先堂で学ぶことになりました。
 福島藩が戊辰戦争で敗れ、減封の上三河国重原藩(@愛知県知立市、刈谷市etc)へ転封になると、三浦省軒は(三河に移らず、)その年(1869年)開校した(お玉ヶ池種痘所の後身=)大学東校に入学します。省軒が卒業した時大学東校は「東京大学医学部」になっていて、その第一期生になります。この頃省軒は、飯田町の義伯父・三浦有恒の家(@千代田区富士見町一丁目)に下宿していました。酷く申し遅れましたが、三浦有恒は三宅艮斎坪井信道(二代目)と並んでお玉ヶ池種痘所の「資金拠出者」に加わった人です。またその頃省軒は、(当時ベストセラーだった)福沢諭吉の「学問のすすめ」を甥の三浦謹之助(1864~1950)に贈り、その本に触発された謹之助は医学の道への志を固めたと云います。
 東大卒業後省軒は、熊本医学校(現・熊本大学医学部)、新潟医学校(現・新潟大学医学部)等の校長や、福岡県立病院(現・九州大学病院)、山口県立病院(現・山口赤十字病院)の院長、後に宮内省侍医を務め、1888年(明治21年)、東京府小石川区小石川竹原町(現・文京区小石川4丁目)で開業します。そして1896年(明治29年)省軒は、樋口一葉の最期を看取ることになりました。更にその16年後、石川啄木(1886~1912)の(臨終には間に合いませんでしたが)死亡診断書を書いたのも三浦省軒です。
 省軒の甥・謹之助も高成田村の医家・三浦家の生まれです。謹之助は後に故郷のことをこう語っています。
「・・・・・(福島から)川を渡って私の村まで行くには山を一つ越さなければならない。その山まで行く途中に「文字摺観音」という観音様があります。その観音様は百人一首にもあります河原左大臣の和歌、みちのくの しのぶもぢずり たれゆえに みぞれそめにし われならなくに
というあの有名な歌を刻んだ碑がかたわらにあるところからきているのです。そこに大きな池がありましてね。池の端に大きな石がありました。その石は石碑とは別なんですが、その石を若い青い生麦でこすると死んだ人の顔がうつるという伝説があるのです。それで、昔、麦の育ちかけたのを人が来て取って、それでこするんで、百姓が困って、その石を池の中に沈めてしまった。
その石が今でも池の中にあるんです。」

                                      
 謹之助は、西南戦争が勃発した年(=東京大学誕生の年)に「西郷軍が東京に攻めてくるかもしれないので危険だ」という周囲の忠告を振り切って(省軒に倣って?)出来立て(?)の東大医学部入学を目指して上京し、伯父の有恒宅に下宿します。
1878年(明治11年)東京大学医学部予科に、1883年(明治16年)医学部本科に入学した謹之助は1887年(明治20年)に卒業し、(卒業年度での留学がかなわなかったため)エルブィン・フォン・ベルツ教授の助手になりました。翌年も国費留学の番が回ってこなかったので、(帝国大学医科大学の初代学長になった)三宅秀の差金で(「宮廷外交」の一つですが、国費ではなく三浦秀がかって仕えた加賀藩主前田家のスポンサーになった)有栖川宮威仁親王(=前田家15代・前田利嗣の妹・慰子の夫)の訪欧の随行医師として1889年(明治22年)アメリカ・フランス・イギリスに渡り、続いて翌年私費でドイツ・フランスに留学しました。この時の留学費用を出したのは、(実家の父・道生ではなく)謹之助を婿にと見込んだ三宅秀です。謹之助は、1892年(明治25年)フランスでジャン・マルタン・シャルコー(1825~1893)に師事しました。その7年前、あのジグモンド・フロイト(1856~1939)がシャルコーの下に留学していましたから、三浦謹之助はフロイトの弟弟子にあたります(か?)。
 1892年(明治25年)に帰国した三浦謹之助は、(2年前に医科大学学長を退き、この年小石川竹早町の三浦省軒宅の隣に引っ越した(=お玉ヶ池種痘所の「資金拠出者」の息子と甥とが隣同士になった)三宅秀の長女・教と結婚し、翌年医科大学講師に就き、(お玉ヶ池種痘所の後身である)医科大学第2医院の診療も担当しました。1895年(明治28年)三浦謹之助は、内科学教授となります。

                                     
 余り知られていませんが、現在の「日本精神神経学会」は1935年(昭和10年)に「日本神経學会」が改称した学会です。そこで(?)日本神経学会の公式サイトを見てみましょう。
「・・・・・日本における本格的神経学の研究と実践、および神経学の学会の源流は、1902年に設立された「第一次}日本神経學会にまで遡ることができる。・・・・・発起人は、東京帝国大学内科学第一講座教授の三浦謹之助と同精神医学科教授の呉秀三であった。三浦はドイツのErbとフランスのCharcotの下で神経学を学び、日本の神経学の祖と呼ばれている。」
 そう、日本神経學会を創ったのは、「日本の神経医学の父」と云われる呉秀三と「日本の神経学の祖」三浦謹之助の二人だったのです。1924年(大正⒔年)に東京帝国大学を定年退官した三浦謹之助は、翌年(関東大震災のアメリカからの義援金で創られた)同愛記念病院の院長に迎えられ1945年(昭和20年)迄務めました。
 三浦謹之助の患者には、明治天皇、伊藤博文、岩崎弥太郎等歴史上の人物が多数居ましたが、(晩年の)福沢諭吉もその一人です。1924年(大正⒔年)2月、脳出血で逝去した諭吉を看取ったのは、少年時代に「学問のすすめ」で医学への志を懐かせて貰った三浦謹之助でした。
 1950年(昭和25年)10月10日夕刻、請われて雨の中を近所の知人宅へ往診に出た三浦謹之助は、幾らも歩かないうちに路上で倒れ、最寄りの三楽病院に運ばれましたが、その日の夜半に息を引き取りました。享年86.三浦謹之助は【26】でも述べたように甥の三宅仁の執刀で病理解剖され、死因は福沢諭吉と同じく脳出血でした。(三浦謹之助の方は、「脳橋出血」と出血部位迄公表されています。)

               この回「了」

 

 熊本大学永青文庫研究センターから「永青文庫研究・第9号」が送られてきた。
「特集 熊本藩士上田久兵衛と幕末維新」とある通り、高祖父・上田久兵衛の事が特集されている。誠に晴れがましいことだが、これは昨年3月8日に熊本大学で同名演目で開催されたシンポジウムの成果をまとめたものである。そして別途、久兵衛の遠祖でもある上田太郎右衛門が忠利公の命を受けて「日本初の葡萄酒」製造にかかわった、後藤典子氏の研究成果が英文で掲載されていて、これはまさに細川家のこういう活動を世界に知らしめようとする意欲が伺えて、まことに嬉しく思う。上田家血族の人間として、まことに望外の喜びである。
残念ながら、一人一冊とのことで熊本史談会の人たちや知人に連絡をすることしかできなかったことが心残りである。しかしながら、このような機会を得たことに対して心より御礼申し上げる。

 戦後GHQは敗戦国日本人に思想的弾圧の意をもって検閲により多くの著書を公的に焼却処分をした。「焚書」と呼ばれるものだが、世の中から完全に排除されたものではないから、現在では再発刊されている。菊池寛の「大衆明治史」等もその一つだが、なんでこれが焚書となったのだろうという者もある。
最近私は辻善之助著の焚書「皇室と日本精神」という本を、「古本」で見つけて購入した。
これとてもいささかの「皇室礼賛」は感じられるものの、今となってはどうということはない書物だが、ただ「軍人に賜りたる勅諭の歴史的意義」などという項は、連合国としては「由々しき事柄」であったのだろう。


 辻善之助は結びとも思われる部分に、細川幽斎が詠んだ歌を紹介している。
     日の本の光を見せてはるかなる もろこしまでも春や立つらん

 

さる4月29日は昭和天皇の誕生日(現・昭和の日)だったが、100年という時間が流れた。

「日の本の光」は世界に輝いていると思っているが、現今の世界情勢はきな臭い。
世界の平和をリードする「日本」になるように願わずにはいられない。

 

 

 5月2日(土)の BS11 イレブン、21:00~21:55まで『偉人・敗北からの教訓 佐々成政』が放映されますのでご案内申し上げます。
成政公の御子孫で友人の熊本在住の佐々瑞雄氏からご連絡をいただきましたが、氏は『佐々家覚書』の著者であるとともに、『佐々成政と肥後国衆一揆~中世から近世への歴史的転換点』『肥後国主佐々成政が遺したもの~越中の覇者・肥後の失政』などの論考を発表されている。
番組関係者の取材を受けられたというが、どのように番組に反映されているか拝見するのを楽しみにしている。

 世の中はGWに突入したが、当方は足は痛いは直ぐ疲れるはで外出もままならない。
お出かけの皆様にはお疲れになりませんように・・・ご苦労様。
私はTVを見るのも厭だし、ひたすら読書だが、まだ古代史から抜け出されずにいる。
これだけたまった本をとっかえ引き換え読んで過ごすことになりそうだ。
まだ増えそうな気配だが、現在ひとまずブレーキをかけている。

 

  古事記  上・中・下巻
  日本書記 上・下巻 
  古事記及び日本書記の研究    津田左右吉
  日本古代国家の成立       直木孝次郎
  日本の古代文化         林家辰三郎
  日本国家の起源         井上光貞
  騎馬民族国家          江上波夫
  日本古代の国家形成       水野 祐
  照葉樹林文化          上山春平
  古墳とヤマト政権        白石太一郎
  日本の神々           平野仁啓
  神社の系譜           宮元健次
  民と神の住まい         川添 登
  伊勢神宮            川添 登  
  天皇はどこから来たか      長部日出雄
  「古事記」の事実        長部日出雄
  日本の神々の「家系図」     戸部民夫
  古代出雲大社の復元       大林組
  季刊・大林「縄文」       大林組(資料文献が131紹介されている。欲しい・・)
  熊野から読み解く記紀神話    池田雅之・他
  古代史講義           佐藤 信・他
  古代史の基礎知識        吉村武雄
  謎の大王継体天皇        水谷千秋
  謎の渡来人秦氏         水谷千秋
  歴代天皇記           肥後和男・他
  白村江             遠山美都男
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  日本人の誕生          植原和郎
  人類の起源           藤田謙一
  ホモサピエンスの誕生と拡散   藤田謙一

 

 
  
 

  

 

 津田左右吉著の発禁書籍「古事記及び日本書記の研究」を読んでいるが、いわゆる「皇室発祥の地ヒムカ(日向)」についての発言「後世までクマソとして知られ、逆賊の占拠地と見られ、長い間ヤマトの朝廷を戴く国家に入って射なかった今日の日向、大隅、薩摩地方、またこういう未開地、物資の供給も不充分で文化の発展もひどく遅れていた僻陬の地、いわゆるソシンの空国がどうして皇室の発祥地であり得たか、という疑問がある」は辛らつである。

 

 津田先生没後25年たった1968年「未開地・僻地」と指摘された鹿児島県霧島市国分の台地から縄文前期の驚くべき遺跡が顔を出した。「上野原遺跡」である。
吉野ケ里遺跡(1986)の発見にさかのぼる18年前の事だが、吉野ケ里同様工業団地造成の中で発見された。吉野ケ里や後年の三内丸山遺跡(1992年)などの発見時に比べるとその報道は大いなる差異が見受けられる。津田先生がこれらの遺跡をご覧になったらどういう感想をお持ちになられるだろうかと感じる。

 

「天皇はどこから来たか」「古事記の真実」などの著者、直木賞作家長部日出雄氏はこの地を訪問されているが、津田左右吉の言に対しては大いに批判的である。

縄文海進時におけるこの地も、現在の霧島市国分はまさに海の中に在った。標高262mほどの台地はまじかに桜島を望み、高千穂の峯も望むことができる。瓊瓊杵尊は「竺紫の日向の高千穂のくじふるたけに天降りましき」て、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前に真来通りて、朝日の直さす国、夕日の日照る国なり。かれ、此地はいと吉き地」と宮殿を建立したと古事記は記す。
天孫・瓊瓊杵尊から神武東遷の神武天皇まではヒコホホデミノミコト(山幸彦)・ウガヤフキアエズノミコトと続いて4代目だから、100年程は経過しているのだろうが「くじふる高千穂の地」に住まわれたということになる。長部氏は鹿児島の高千穂から延岡に出たのではないかと推理されている。延岡は妻が生まれた地で、随分何度も行き来したし、高千穂も観光がてら幾度となく足を延ばした。
(もっとも宮崎県の高千穂地方との本家争いはどちらが本物かは軽々に口にはされぬが・・)

 

 いずれにしても、天孫の地についての津田左右吉先生の言は、妄言だと思っている。
そして上野原遺跡を訪ねてみたいと願っているが、隣県といえども霧島市は遠い。
せいぜい図録や論考其の他資料などを眺めて我慢するしかない。

 

 

 享保14年(1729・宣紀代)4月28日、熊本は大風に見舞われる中藪ノ内から出火、屋敷1,380ヶ所、総家数2,584軒という大火事となった。
我家の三代目・又之允が類焼の災難にあっているし、初代の姪にあたる龍源院(兄・磯部長五郎女・熊)が創建した宗厳寺も灰燼に帰した。
                                           
この熊本最大の火事は、肥後国誌(上巻p102)にも記載があるが、その出典は雑花錦語集である。松本寿三郎氏によって「熊本市史」に「手取・薮内火事類焼の面々」として紹介されている。延宝六・七年の作と推定される「手取・千反畑・外坪井之絵図」を見ると、現在のホテルキャッスルから九州郵政局あたりに「御台所衆」の屋敷が集中して見える。このあたりが火元か?
幸い過去に作成しUSBに保存した資料から、その被害の程をご紹介する。
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  手取・薮内火事類焼の面々
 享保十四己酉年四月廿八日午ノ上刻、手取於薮内御台所方役塙善左衛門屋敷より火事出来、同日申ノ下刻火鎮ル、右之節類焼之面々

   堀内弾蔵     永井平右衛門   塩山市右衛門
       裏長屋計
   益田忠右衛門   堀部右学     渡部左大夫
   右田左一右衛門  松本杢兵衛    検校屋敷
       上り屋敷
   相良又左衛門   佐野安右衛門   松岡儀右衛門
   粟津嘉次郎    後藤喜左衛門   増田庄次郎
   山崎万七     桑木源太右衛門  塩山勝之允
   上村理右衛門   河本真左衛門   清田清兵衛
   高森弥右衛門   永松久悦     住谷庄右衛門
   小嶋伊左衛門   御臺所方屋敷   御切米取屋敷
       上り屋敷      十九ヶ所      弐ヶ所
   御路次之者屋敷  歩御使番屋敷   朽木内匠
       拾ヶ所       壱ヶ所
   戸波十右衛門   
宗岳寺      佐分利平右衛門
                         表長屋計
   新坪井米屋町   地蔵院      新坪井魚屋町
   佐藤軍平     橋本角大夫    吉田藤右衛門
   松原勘助     中村作右衛門   新坪井八百屋町
   松原安大夫    中西傳左衛門   歩御使番屋敷
                         十八ヶ所
   歩御小姓屋敷   御掃除組屋敷   御掃除坊主屋敷
       十壱ヶ所     十八か所      壱ヶ所
   東岸寺      新坪井鍛冶屋町横町 
永福寺
   永屋勘平     宗厳寺      中川武兵衛
   甲斐弥次兵衛   内尾儀兵衛    竹原清大夫
   内膳家下屋敷   真藤又之允    児玉四郎兵衛
   神山園右衛門   松下伴右衛門下屋敷 宇佐川忠右衛門
   鯛瀬宇兵衛    清田角大夫    
即生寺
   宝光院庚申堂   糸橋       御切米取屋敷
             (寺原)        八ヶ所
   御切米取屋敷   足軽屋敷     地子屋敷
        六ヶ所    六十ヶ所     四ヶ所
   手嶋喜大夫    東 又左衛門   山内次右衛門
   山口元節     西村兵右衛門   安東五助
   財津平右衛門   小野三右衛門   井上又十郎
   堤 孫左衛門   米村兵作     山内仁右衛門
   堤 新平     崎村茂右衛門   蒲池喜左衛門
   小原勘右衛門   上野勘右衛門   緒方平兵衛
   歩御小姓屋敷   御切米取屋敷   御掃除坊主屋敷
        三十三ヶ所    三十七ヶ所     壱ヶ所
   
流長院      壽昌院      浄国寺
   順恩寺      快宝院      鏡照院
   真光寺      良善坊      
常永寺
   足軽屋敷     水足庄三郎    内膳殿下屋敷
       百八十ヶ所
   山中彦十郎    上田弥右衛門   後藤丞右衛門
   津田治左衛門   大宮司屋敷    横田平助
   宇田四右衛門   永江宗愚     水足半助
   竹田津次左衛門  河崎作之允    中津海三右衛門
   瀬戸源左衛門   飯銅上右衛門   小林半右衛門
   加来佐左衛門   志方半兵衛    一村弥三兵衛

   

        尾藤又左衛門   小堀半九郎    圖書殿下屋敷   
   戸田儀兵衛    山川岡右衛門   辛川忠助
   續 才兵衛    安藤久左衛門   齊藤源兵衛    
   近藤友仙     横井喜平太    兼松七右衛門
   大概貞右衛門   吉村市左衛門   水野杢左衛門   
   中路加兵衛    山崎平助     緒方夫右衛門
   元田尉大夫    永井幸淳     成田伊右衛門   
   安場仁左衛門   元田尉大夫添屋敷 高並伊兵衛
   吉田傳兵衛    浅山平大夫    岩崎次郎兵衛   
   樹下團之允    牧寺平右衛門   小栗九十郎
   林 孫兵衛    三宅藤馬     坂牧瀬左衛門
   岩越惣右衛門   嶋 又左衛門   原田弥三兵衛
   大洞次左衛門   松田七右衛門   明石半右衛門
       上リ屋敷              上り屋敷、其節平井吉兵衛ニ拝借
   町野玄格     金守喜平次    萱野丹右衛門
   萱野丹右衛門添屋敷 寺川助之允   渡邊新之允
   加来大助     栗崎祐節     魚住小右衛門
   
丹後寺      額田権次     児玉織右衛門
   瀬川才右衛門   小川半七郎    吉住半右衛門
                     松下伴右衛門
   松崎甚九郎    渡邊権大夫    橋本又之允
   小崎孫右衛門   智姓院      大石長右衛門
   内藤宗伯     伴 十郎兵衛   田中九郎兵衛
   高橋弥次兵衛   津田治左衛門下屋敷 村川作左衛門
   吉田平右衛門   伊藤吉右衛門   正垣又之允
   杉山宗朴     
愛染院      稲津角之允
   小林半大夫    有吉七兵衛    小林半大夫添屋敷
   田中左兵衛下屋敷 慈圓院殿     兼坂藤右衛門
        四ヶ所
   和田十郎兵衛   金津十次郎    宮部角兵衛
   増田勘次     瀬崎次郎四郎   芦村十郎左衛門
   尾藤甚次郎下屋敷 嘉悦市左衛門   
専念寺
   薬師堂一乗院   鏡前院      金剛寺
   志水次郎右衛門  志水次郎右衛門添屋敷 岡 孫大夫
   佛厳寺      住江四郎兵衛   松崎次兵衛
   荒木善兵衛    早川十郎兵衛   都甲太兵衛

   志水源太     永良助之允    松野主殿
   松野主殿下屋敷  岡 久右衛門   武藤助左衛門
   中村兵助     大村猪右衛門   松崎善左衛門
   安井吉兵衛    三宅藤馬下屋敷  平野角左衛門
   入江平内     藪 久左衛門   牧 平次郎
   塚本七郎右衛門  平川奥左衛門   白木七郎右衛門
   吉田庄右衛門   沢村仁三右衛門  宇野弥右衛門
   堀田諸兵衛    野田伊兵衛    志方弥次兵衛
   財津惣兵衛    山羽牛右衛門   筑紫丹右衛門
   大膳殿下屋敷   堀 次郎大夫   堀次郎大夫添屋敷
   梅原丹七     真藤久左衛門   中山勘左衛門
               上ヶ屋敷
   宮川庄兵衛    平野久右衛門   浦上十兵衛
   圖書殿下屋敷   財津正作     石川源太右衛門
   小笠原庄左衛門  筑紫権左衛門   藤掛忠右衛門
   堀 一学     中村進士     池邉如堅
   不破角右衛門   上田治部左衛門  大木弥七兵衛
   安富孫左衛門   横山隼太     平野弥右衛門
   堀田安右衛門   松浦梶平     服部武兵衛
   野々口又之允   元田弥五右衛門  野々口勘右衛門
   小笠原備前殿   小笠原備前殿下屋敷 宗像加兵衛
                  四ヶ所
   赤尾源五左衛門  中路新右衛門   高山八右衛門
                         御借屋敷
   浅香忠兵衛    香山角右衛門   魚住市郎右衛門
   宮脇彦左衛門   吉住弥内     米田作左衛門
   嶋 庄右衛門   宇野理兵衛    長塩彦之進
   古庄養谷     門池杢兵衛    橋谷市蔵
   木原猪右衛門   牛嶋角兵衛    松本團四郎
   沢 丹右衛門   稲津角之允    遠山七郎右衛門
               同添屋敷
   戸嶋嘉平次    井沢十郎左衛門  野田安左衛門
   稲津弥七     内膳殿下屋敷   釈将寺
   大木隼人下屋敷  松岡久右衛門   筑紫半蔵
   松本助左衛門   米田傳兵衛    藤崎太右衛門
   佐田宇兵衛    佐々木金助    匂坂織右衛門
               上ヶ屋敷

   沢村甚兵衛    梅田藤大夫    河喜多作左衛門
   福田新兵衛    寺井十兵衛    荒木市郎左衛門
   猿木勘左衛門   中村進士添屋敷  岡元猪右衛門
   山路太郎左衛門  釘本源之允    大里牛右衛門
   椋坂政之助    池邉左大夫    堀田甚助
               御借屋敷
   岩間次左衛門   
向臺寺      浄永寺
   
西方寺      千手坊      山田猪源太
   田中左兵衛下屋敷 井関岡右衛門   内藤市之允
         二ヶ所
   河喜多貞右衛門  永良弥角     岩立観音堂
   一宮源四郎    妹尾左七右衛門  溝口蔵人殿下屋敷
   竹田半大夫    塚本弥次兵衛   塚本仁兵衛
   井上新之允    志方五郎兵衛   尾藤甚次郎下屋敷
   小山伊小右衛門  仙勝院      圓通岩                     

              (仙勝院→現熊本地方裁判所)     
   道家玄養     平野五左衛門   内膳殿下屋敷
   沢村権兵衛    松野四郎大夫   足軽屋敷
                       二百三十五ヶ所
   地子屋敷     御切米取屋敷   阿蘇大宮司出府屋敷
     三ヶ所        四十四ヶ所

   尾藤又左衛門   小堀半九郎    圖書殿下屋敷   
   戸田儀兵衛    山川岡右衛門   辛川忠助
   續 才兵衛    安藤久左衛門   齊藤源兵衛    
   近藤友仙     横井喜平太    兼松七右衛門
   大概貞右衛門   吉村市左衛門   水野杢左衛門   
   中路加兵衛    山崎平助     緒方夫右衛門
   元田尉大夫    永井幸淳     成田伊右衛門   
   安場仁左衛門   元田尉大夫添屋敷 高並伊兵衛
   吉田傳兵衛    浅山平大夫    岩崎次郎兵衛   
   樹下團之允    牧寺平右衛門   小栗九十郎
   林 孫兵衛    三宅藤馬     坂牧瀬左衛門
   岩越惣右衛門   嶋 又左衛門   原田弥三兵衛
   大洞次左衛門   松田七右衛門   明石半右衛門
       上リ屋敷              上り屋敷、其節平井吉兵衛ニ拝借
   町野玄格     金守喜平次    萱野丹右衛門
   萱野丹右衛門添屋敷 寺川助之允   渡邊新之允
   加来大助     栗崎祐節     魚住小右衛門
   
丹後寺      額田権次     児玉織右衛門
   瀬川才右衛門   小川半七郎    吉住半右衛門
                     松下伴右衛門
   松崎甚九郎    渡邊権大夫    橋本又之允
   小崎孫右衛門   智姓院      大石長右衛門
   内藤宗伯     伴 十郎兵衛   田中九郎兵衛
   高橋弥次兵衛   津田治左衛門下屋敷 村川作左衛門
   吉田平右衛門   伊藤吉右衛門   正垣又之允

 

   一消失の屋敷火本共ニ 千三百八拾ヶ所
   一消失の家数     二千五百八拾四軒
      内
   屋敷数三百三拾九ヶ所
   御知行取屋敷、御中小姓御用屋敷共ニ
   此家数千三百三拾七軒
      内 拾九軒蔵
       壱ヶ所御賄物所、同所之御音信所

   御賄物所家数八軒 御音信所共ニ
      内五軒御蔵 外ニ御蔵一軒残り申候
   同壱ヶ所 竹小屋 此家一軒
   同御掃除方会所  此家数三軒
   同百八拾四ヶ所 御切米取屋敷 此家数弐百六拾弐軒
   同四百拾五ヶ所 足軽屋敷 此家数四百拾五軒
   同弐拾五ヶ所  御路次之者・御掃除之者、諸手伝共
                  此家数弐拾五軒
   同弐拾四ヶ所  地子屋敷 此家数弐拾四軒
   同三拾壱ヶ所  寺院山伏共ニ 此家数百拾八軒 内壱軒ハ蔵
   同三百四拾三ヶ所 御町屋敷  此家三百六拾七軒
     外ニ三拾六軒ハ
   京町一丁目軒数六拾七軒    但、間数弐百三拾七間余
   京町二丁目軒数四拾四軒    但、間数百六拾八間余
   今京町  軒数六拾壱軒    但、間数弐百八間余
   今京町ニ付居候地子屋敷    軒数弐拾三軒
   本坪井町 軒数三拾九軒    但、間数百三拾六間
   新坪井町 軒数百三拾三軒   但、間数五百拾四間余
   橋弐ヶ所 京町観音坂下橋 寺原糸橋
   新坪井八百屋町より西ハ御堀端 東西弐丁程迄
                      中通ニ而  
   藪之内橋際より北ハ真浄寺際迄 南北五丁迄

   本坪井町より西ハ糸橋際迄   東西一丁半程
                      中通ニ而  
   同所ニ而焼口より北ハ足軽小路 南北三丁半程迄

   内坪井兼松七右衛門屋敷より  東西三丁程
   西ハ大木隼人下屋敷迄         中通ニ而  
   津田次左衛門屋敷より北ハ流長 南北六丁程
   院迄

   寺原糸橋より西ハ寿昌寺迄   東西壱丁半程
                      中通ニ而  
   井上又十郎屋敷下より北ハ足軽 南北五丁程
   小屋迄

   京町松野主殿屋敷より西ハ足軽 東西六丁程
   小屋迄                  中通ニ而
   稲津角之允屋敷より北ハ出京町 南北七丁程
   入口構際迄

   一焼死之者九人 内七人ハ男、家中之侍幷町人末々之者
             二人ハ女、家中之者
   一怪我人拾壱人 内九人ハ男、家中之侍幷町人末々之者
             二人ハ女、家中之者
   一死牛馬・怪我牛馬共ニ無之候
      外ニ
   一屋敷数三ヶ所 飽田郡牧崎村之内沼田勘解由下屋敷飛
         火ニ而消失、此家数五軒
   一屋敷数七竈
      同郡京町村之内飛火ニ而焼失、此家数七軒
      右両所ニ而死人・怪我人幷死牛馬・怪我牛馬等茂無之候

   一岩立向臺寺下 奥田小左衛門組三拾弐人但、小頭共ニ
   一寺原庚申橋之西
         中村市郎右衛門組三拾弐人 但、小頭共ニ
   一寺原大工町北 嶋又左衛門組三拾弐人 但、小頭共ニ
   一岩立    熊谷忠右衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
   一寺原    中川佐左衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
   一寺原田畑  安富孫左衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
   一寺原材木丁 松本助左衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
   一岩立    氏家平九郎組弐拾弐人  但、小頭共ニ
   一釈将寺下  志水兵大夫組弐拾弐人  但、小頭共ニ
   一寺原    飯銅上右衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
   一西方寺下  坂牧瀬左衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
   一岩立常水寺前 一宮源四郎組弐拾弐人 但、小頭共ニ
   一寺原    松岡久左衛門組弐拾弐人 但、小頭共ニ
   一寺原    芳賀助十郎組拾壱人   但、小頭共ニ
   一岩立    大村伊右衛門組拾壱人  但、小頭共ニ
   一岩立    成瀬次郎左衛門組拾壱人 但、小頭共ニ
   一岩立    興津弥五右衛門組拾壱人 但、小頭共ニ
   一岩立    兼松七右衛門組拾壱人  但、小頭共ニ
   一瀬戸口   吉田孫四郎組拾壱人   但、小頭共ニ
   一瀬戸口   田中小左衛門組拾壱人  但、小頭共ニ
   一瀬戸口   浅香忠兵衛組拾壱人   但、小頭共ニ
   一瀬戸口   堀田勘兵衛組拾壱人   但、小頭共ニ
              人数四百拾五人 但、小頭共ニ
    三拾挺三組 弐拾挺十組 拾挺九組 合弐拾弐組

   

 日本書記における「国譲り」の項に登場する、「柱は高く太し、板は広く厚くせむ・・天日隅宮」とは、出雲大社が建設される前段の建築物であろうと私は考えている。
國學院大學の学術リポジトリ-
天日隅宮考』と出雲大社にどのように紹介されているのか、是をぜひ読みたいと思ってアクセスしたら、なんと「現在メンテナンスのためリポジトリをご利用いただけません。停止期間:2026年4月23日 14:00 - 2026年4月27日17:00」とコメントされた。            

 天照大神は二男・天穂日命(天菩比神)をもって葦原中国平定の為に使者として遣わしたが、「大国主神に媚び付き」復命しなかったとされるが、その天穂日命を出雲国造家の祖とするのが千家家である。1700年も受け継がれていると言われるが、だとするとDC300年余のことだが、そんな時期に建設されたのだろうか。
そもそも古事記も日本書記もその成立は700年代のことだから、出雲大社も伊勢神宮も創建されていたのは間違いないだろう。その記述内容は神代のものではあるが、編者は出雲大社の巨大さを認識しもしくは目視するの機会もあったかもしれず、それは大いに記紀の記述に反映されているだろう。出雲大社の巨大な階段と千木の上部までの高さ16丈(約40.5m)という巨大建築物がそう簡単に建設されたとは思えない。
スーパーゼネコン・大林組発行の「古代出雲大社の復元」(1990)を読むと、工期6年・総延べ人数126,700人、工事費121億8,600万円だと試算されているが、現在においては3倍くらいの工事費に膨らんでいると思える。出雲族の為に天孫族が建設したという記紀共通の記述が、ぼんくら頭の私にはどうしても理解できない。
菅原道真や平将門などと共通する「たたり」を畏れての事だろうか・・・

 

 一方では近世前期における『出雲国風土記』写本の系譜‐細川家本と出雲図書館本‐という論考の存在を知り、出雲風土記の今日的価値について、近世初期の細川家が関わっていることを頼もしく思う。

 

 ヒメシャラ
 

 二年ほど前散歩で住宅地を散策していたら、樹皮が何層も色を重ねてマダラになっている庭木を見つけた。しばし足を止めて眺めていたら、住居の主が出てこられたので図々しく「珍しい木肌の木ですね」と声を掛けたら、「りょうぶです」と言われた。首をかしげると「令和の令に法律の法」と書きますと仰る。若葉が食べられるらしく「お上が植えるように触れたことから「令法」と書くのだそうですよ」との蘊蓄を披露された。
そして「秋には白い房状の花が咲きます。」との事であった。
又「植物が詳しい方でも木肌だけを見てヒメシャラですか?」と聞かれる方もおられますよと言われた。御礼を申し上げて又秋には花を見せていただきますとお別れしたが、妻の入院騒動などで約束を果たしていない。

 

                   静かさや 沙羅一輪の落花かな   津々

 処で木肌のマダラを見て「ヒメシャラですか?」と尋ねた人がいたという話であったが、私は「えっ」と驚いてしまった。もう随分前の事だが、あるお宅の設計を担当して際、落成記念にと樹高1mほどの「ヒメシャラの木」をお贈りしたことがある。中庭に植えられたらしいが、4~5年程のち電話をいただき色々話している中で、「シャラの木」が白い花を散らしていて心が洗われますョと喜んでいただいた。自分の趣味で「ヒメシャラ」にしたのだが、喜んでいただいてうれしかった。ヒメシャラは10年くらいの成木になると「リョウブ」同様、木肌が何色ものマダラ模様を作り出すらしい。風の噂にお亡くなりになったと聞いたが、あのヒメシャラはマダラ模様の大木になっているかもしれない。

 

 ヒメシャラ(夏椿)を「沙羅双樹」ということがあるらしいが、これは完全な間違いである。
本物の沙羅双樹は日本では育たないらしい。

 

 

 宇野東風の著「細川霊感(重賢)公」に、細川綱利に関する記述がある。言葉は穏やかであるが、綱利の奢侈ぶりを批判している。

 「按(あんずるに)本藩の困窮なりし事は、上編にも既に記述せし所なるが、其の原因を察するに、単に奢侈の風に感染せるのみならず、幕府の政策として、諸侯の富を削り、江戸の邸宅参勤の費用のほか、其の身代に應じて公邉属役を命じ、金穀を徴収せしより、入費増々嵩み、且綱利公甫(はじ)めて七歳にて就封せられ、又其際は削封分知の風説もありて、一藩大に動揺せし程なりしが、特例を以て遺領相続あり、又公子二人ましましゝかど、皆早世し給ひて継嗣なく、故に当時養子の法なく、遺子なき諸侯は没収せられければ、公は自身一代との考えにて、後世子孫の計なく、万事闊達に取賄はれ、収支相償はざることとなりしに、後養子の許可ありて、同族若狭守重利公の二子宣紀公を養子とせられ・・・・・・(以下略)」
 
 綱利には側室・安住院に二人の男子(與一郎・吉利)があったが、惜しくもそれぞれ14歳・18歳で亡くなっている。ここで興味深いのは、「当時養子の法なく」という記述である。
「二人の男子が亡くなり養子も取れないので、細川家も自分一代限り」と闊達に振舞われたと、いう訳である。「当時養子の法なく」とはいかなることなのか?

 18歳で二男吉利が亡くなったのは、宝永三年四月廿五日である。
この時期綱利は「夜中越中」とあだ名されながらも、柳沢吉保の元を度々訪れている。
吉利の死後綱利はあろう事か、吉保の三男・安基を養子にすべく画策している。吉保は承諾したらしいが、当時の老中稲葉正住が「国許の家中は同心するのか、近親はいないのか、無縁の者の養子は御条目にたがう」と反対をしたというのである。これは武家諸法度に定めがあるところであり、柳沢も綱利も承知の上での養子話であったのだろう。処が老中稲葉正住は、柳沢吉保のしっぺ返しを受けて老中を罷免されてしまうのである。宝永四年十二月、綱利は弟・利重の二男・利武を養子とすべく幕府に願い出、翌年の正月十九日に許可された。

 綱利は幕府に願い出て何度も帰国を先延ばしにしている。江戸では「帰国すれば押し込めにあうからだろうと」うわさが立つほどであった。(尾張藩朝日定衛門重章・鸚鵡籠中記)

家老木村半平が諫言すべく次之間に詰めて数日を過ごしたという。(肥後先哲遺跡)
綱利が隠居し、宣紀(利武)が襲封するのは、正徳二年七月のことである。

 

 生母・清高院とともに奢侈の質であった綱利の時代、側近の横暴もあり細川家の財政は悪化の一途をたどる。宝永九年の九州筋巡見使報告「九州土地大概」によると、「国政悪民大ニ困窮ニオヨフ」と痛烈である。