今日はサッカーネタ。
実は僕はスポーツも好き。
するのも観るのも好きなのだが、するほうはもうめっきり機会が減っちゃった。いかんなぁ。
で、せめて大好きなロベルト・バッジョのお話など。
ある程度サッカー知ってる人ならもちろん名前は聞いた事があるよね。
イタリアの至宝とまで謳われた希代のファンタジスタ。
自国のみならず、世界を魅了したアズーリ(イタリア代表)の10番。
その人柄でも知られる。
「フットボーラーとしての彼の偉大さを知らない者はいないが、ひとりの人間として見た場合、彼はさらに魅力的だ」
こう言ったのはジョージ・ウエア。
しかし、W杯の神様からは、とうとう最後まで微笑まれるコトはなかった。
それもあるのだろうか。
彼のサッカー人生は、いつも光と影が交差する。
'94年のW杯アメリカ大会。
イタリアは苦しみながらも決勝まで勝ち上がる。
立役者は文句無しにバッジョ。
特に決勝トーナメントに入ってからのバッジョのプレーは尋常じゃなかった。
ナイジェリア、スペイン、ブルガリアを彼のゴールで次々と下していく。
万全な体調とはとても言えない状態。
古傷がある右足を引きずりながら、得点力不足のイタリアを鼓舞する。
バッジョは、あきらかに背中の10番以上のモノを背負っていた。
そして決勝戦。
相手は王者ブラジル。
炎天下の中、120分間にわたる死闘。
決着がつかず、勝負はPK戦へ。
そして、あろうことか、バッジョは、最後のPKを、外したー。
その瞬間、ブラジルの優勝が決まる。
このたびのW杯、日本の駒野がPK外したよね。
彼のショックは大変なものだろう。
しかしそれはトーナメント1回戦の出来事。
バッジョが外したのは世界一が決まる決勝だ。
しかも外したその瞬間、イタリアが敗れ大会の幕が閉じたのだ。
そのときの彼を僕はハッキリと覚えている。
なにしろゲームは終わってしまっているから、TVカメラもPKを外したバッジョをいつまでも抜くしかない。
残酷な画だった。
両手を腰にあてて、所在なげにやや俯きながら、しばし呆然と立ち尽くす姿。
その胸中は、はかり知れない。
4年後、’98年のフランス大会。
バッジョはW杯のピッチに帰ってきた。
準々決勝の相手は、この大会優勝することとなる開催国フランス。
試合は0ー0のまま、またもやPK戦へ。
最初のキッカーとして登場したバッジョは、今度は見事にキーパーの左にボールを流し込んだ。
しかし、最後のキッカーを務めたディビアッジョの一撃がクロスバーに当たり、イタリアの敗退が決まる。
泣き崩れるディビアッジョのもとへ駆け寄ったのはバッジョだった。
「ジジ(ディビアッジョの愛称)PKを外すってことは、お前がそれを蹴る勇気を持っていたからだ。さあ、家に帰ろう。胸を張ってイタリアに帰ろう。立とうぜ、ジジ」
その手でワールドカップを高く掲げることは出来なかったとはいえ、バッジョは充分すぎるほどイタリア代表に貢献した。
これで代表を引いて、クラブチームに専念しても誰も文句は言わない。
ぶっちゃけ代表に選ばれても給料が増えるワケではない。
所属クラブの監督も実はあまりいい顔はしない。
「ケガだけはしないようにしないとな…」くらいの気持ちで代表に来ているビッグクラブの選手は少なくないのだ。
しかし、バッジョはそうではなかった。
むしろ代表へ対する情熱はますます加速度を増していく。
周囲が呆れ返るほどに。
フランス大会終了後、移籍したインテルでバッジョは控えに追いやられる。
なにしろ当時のインテルの監督リッピは戦術の鬼。
ファンタジスタは嫌いなのだ。
それでも数少ない出場機会でバッジョはきちんと結果を出すのだが、これでは代表には選ばれない。
アズーリは若返りを図っていた。
バッジョがふたたび代表に呼ばれるためには、今まで以上の実績を積み重ねていく必要がある。
'00年のシーズン最終戦、パルマ相手に2点をあげチームを勝利に導くと、バッジョはインテルを去っていった。
彼のもとには、アーセナルやレアル・マドリーやバルサなど、海外の一流クラブからオファーが届いていた。
しかし、バッジョは断り続ける。
何故なら当時のイタリア代表は「セリエAこそ世界最高のリーグ」という自負のもと、国内クラブ所属の選手でカタめられていたからだ。
海外に出てしまうと、たとえ活躍しても代表に呼ばれる可能性はゼロに近い。
セリエAのクラブで結果を残すしかないのである。
だが、スター選手とはいえ右膝に爆弾をかかえた高給取りのベテランに国内のビッグクラブの反応は冷たかった。
シーズン開幕直前、ようやくひとつのクラブがバッジョ獲得に乗り出す。
ブレシアだ。
ブレシアはセリエBから昇格したての超が付くマイナークラブだ。
それでも、バッジョは入団を決意する。
そこには、スーパースターのプライドは微塵もなかった。
「試合にさえ出してくれれば、必ず結果を残してみせる」
この時、バッジョは33歳。
次の日韓W杯まであと1年と9カ月。
ラストチャンスだ。
時間との戦いが始まった。
ブレシアでのバッジョは息を吹き返したように素晴らしい働きを見せる。
一年目のシーズンは25試合に出場して10ゴール。
バッジョから放たれるボールは、まるで魔法がかかっているかのように相手の守備網を切り裂いた。
全盛期にひけをとらない身体のキレ。
バッジョの活躍で、弱小クラブのブレシアはセリエAで7位という上出来過ぎる成績を残す。
観客は蝶のようにピッチを舞うバッジョの姿にため息をついた。
右膝は治ったワケではない。
「なんとかもってる。イケると思う。壊れないでくれ」
当時、バッジョは右膝をさすりながら、記者の質問にこう答えている。
そして2年目、勝負のシーズン。
バッジョの緑色の瞳は、それまでとはあきらかに違う光を放ち始める。
彼の代表にかける思いはこれほどまでのモノなのか。
凄みを増すプレー。
鬼気迫る気迫。
誰もバッジョを止められない。
8試合で7ゴール。
気がつくとセリエAトップの数字を叩き出していた。
こうなれば、世論だってほうっておかない。
「ロビー(バッジョの愛称)を呼べ!」
イタリアでは、バッジョ代表待望論が巻き起こった。
正直なところ、マイナークラブに移籍したバッジョを「ピークを過ぎた過去の人」と醒めた目で見ていたカルチョ・ファンも少なくはなかった。
しかしその文句ナシの活躍ぶりは、もはや誰もが認めざるを得なかったのである。
だが、そんな彼に悪夢が襲いかかる。
ベネチア戦でバッジョは背後からタックルを受けて倒れ込む。
抑えていたのは古傷の右膝ではなく、左膝だった。
いやな感触が残った。
ベンチには下がらず治療を受けてピッチに戻る。
その後も懸命にプレーを続け、後半5分にはPKも決める。
しかし、限界だった。
そのPKからわずか3分後、バッジョは突如ピッチに崩れ落ちるように倒れ、そのまま立ち上がることはなかった。
誰とも接触してないのに。
担架の上でバッジョは呻いていた。
「諦めない。まだ、諦めない」
診断結果は左膝靭帯損傷。
全治3カ月。
バッジョの代表復帰を望む声は、潮が引くように消えていった。
言葉通り、彼は諦めなかった。
古傷の右膝に続き、左膝までが満足ではなくなったというのに。
復帰を次の年(日韓W杯の年)の1月に定め、左膝のリハビリに打ち込んだ。
ブレシア近郊の寂れた運動場に毎日通い、黙々と練習メニューをこなした。
「まだ間に合う。頼むぜ。今日ももってくれよ」
自分の膝を励ましながら、真冬のグラウンドを走り続ける。
オレは代表に戻るんだ。
W杯に出るんだ。
その思いだけがバッジョを支えていた。
そして'02年の1月31日、復帰のパルマ戦。
観客の惜しみない拍手の中、後半から出場したバッジョはピッチを躍動した。
わずか13分間だが。
そう、出場から13分後。
それはまるで3カ月前のベネチア戦のリプレイを見ているようだった。
やはり接触は一切なかった。
突如その顔を苦痛に歪め、バッジョの身体はまたしても地面の上に崩れ落ちた。
凍りつくスタジアム。
ただ事でないのは誰の目にもあきらかだった。
左膝の前十字靭帯が完全に切れた。
半月板と膝蓋骨も損傷した。
ロッカールームに運ばれたバッジョは、あまりの痛みで呼吸困難に陥った。
呼吸困難だぜ。
曲がったまま硬直した膝を伸ばすのに1時間以上かかった。
全身の痙攣が収まり、やっと息が出来るようになった彼は誰にともなくつぶやいた。
「もうダメだ…」
しかし、信じられないことに、彼はもう一度立ち上がるのだ。
これはもはやスポーツの範疇を超えている。
情熱の一言で説明できるモノなのだろうか。
病院で左膝の手術を受けると、バッジョは自宅に戻ることなく、ボローニャにある「イソキネティック」に向かった。
イソキネティックは、イタリア最高峰の医療水準を誇るリハビリ施設だ。
そこで「チーム・バッジョ」が結成される。
W杯までもう時間はない。
「一秒も無駄にできない。無駄にしたくないんだ」
手術から8日後にリハビリを開始。
トレーニングは1日10時間を超える。
それから1カ月後には、イソキネティックのグラウンドに彼は立っていた。
主治医のナンニは言う。
「細心の注意を払って組んだリハビリのプログラムを彼の気迫が覆してしまった。彼を止めることはできなかった。ケガの再発するリスクと常に隣り合わせだったが、不思議なことに計測データは我々の予想を遥かに超えるペースで上昇していった」
「診断結果は全治6カ月。あの手のケガから4カ月以内で復帰したアスリートは過去にひとりもいない。世界中見渡してもね」
常軌を逸した回復力を見せたバッジョは、わずか3カ月足らずでピッチに帰ることになる。
無謀にではない。
そこには、血液成分、心肺機能、筋力数値、そして精神状態などの医学的な裏付けがあった。
「コンディションを示す数値は、'94年W杯当時の彼自身のそれを上回っていました。我々メディカルスタッフは、100%の確信を持ってゴーサインを出したのです」
間に合った。
W杯に、間に合った。
そして4月21日。
フィオレンティーナ戦の後半25分。
ブレシアの10番がついにピッチに戻ってきた。
しかし、試合に出るだけではダメなのだ。
周りに、バッジョ健在を強くアピールするだけのパフォーマンスを観せなければならない。
与えられた時間はわずか20分程度。
スタンドは、固唾を飲んで背番号10を見守る。
しかし、心配は無用だった。
バッジョは、たった20分の間に相手から2つのゴールを奪った。
しかもそのうちの1本は、相手ディフェンダーを背負ったまま身体を反転させて放った左足のボレーシュートという離れワザだった。
轟音のような歓声。
スタンドにいた全員が立ち上がった。
チームメイトに肩車されたバッジョの元にたくさんの人が集まる。
賞賛と祝福の拍手は、いつまでもいつまでも続いていた。
実は、この時点でバッジョがイタリア代表の青いユニフォームに袖を通す可能性はほとんどなかった。
当時のアズーリは、フランチェスコ・トッティとアレッサンドロ・デル・ピエーロという2人のファンタジスタが攻撃の核となっていた。
この2人をどうすれば共存させるコトが出来るか、というのがW杯を前にしたイタリアの最大の悩みだった。
ポジションテストも繰り返している。
そこに同じタイプのプレーヤーであるバッジョが加わると、事態はますます複雑になる。
つまり、余分な駒なのだ。
いかに死にものぐるいで頑張ろうと、アズーリに彼の居場所はない。
それは、バッジョがいちばんよく解っていたのかもしれない。
'02年5月8日。
W杯メンバー発表。
そこに、やはりロベルト・バッジョの名はなかった。
翌日の新聞に、バッジョ落選の理由を「コンディション不良」とするトラパットーニ監督のコメントが載った。
それは、バッジョを後押ししていた世論に対する言い訳にすぎない。
W杯はどうなったかー。
バッジョのいないイタリアは決勝トーナメント1回戦で韓国と対戦。
疑惑の判定もあったが、延長戦の末に格下のチームに敗れ、'02年大会から姿を消した。
ときおり公の場に姿を現すコトはあるものの、引退後のバッジョは愛する家族と悠々自適に暮らしていた。
サッカー界はじめいろんな分野から仕事の声はかかったが、バッジョは丁寧に断った。
相手は残念がったが、それほどしつこく食い下がってくる人はいなかったらしい。
「ロビーは長い休息を取る資格がある」
おそらくみんなそう思っていたのだろう。
しかし、W杯南アフリカ大会。
イタリアはなんとグループリーグで一勝も出来ず最下位という成績に終る。
つい先日、ツイッターでバッジョのイタリアサッカー協会入りのニュースを目にした。
協会側がついにバッジョを口説き落としたのか、それともイタリア代表の危機に彼が自ら腰を上げたのか。
それは解らない。
でも、イタリアは復活してまたその強さを取り戻すのではないか。
世界中の誰よりも国の代表チームにすべてをかけた男が協会入りしたんだから。
彼の情熱が、アズーリに受け継がれることを僕は祈っている。
ロベルト・バッジョのようなサッカー選手を輩出した国に、そうやすやすと弱くなってもらっては困る。
僕はそう思うのだ。
実は僕はスポーツも好き。
するのも観るのも好きなのだが、するほうはもうめっきり機会が減っちゃった。いかんなぁ。
で、せめて大好きなロベルト・バッジョのお話など。
ある程度サッカー知ってる人ならもちろん名前は聞いた事があるよね。
イタリアの至宝とまで謳われた希代のファンタジスタ。
自国のみならず、世界を魅了したアズーリ(イタリア代表)の10番。
その人柄でも知られる。
「フットボーラーとしての彼の偉大さを知らない者はいないが、ひとりの人間として見た場合、彼はさらに魅力的だ」
こう言ったのはジョージ・ウエア。
しかし、W杯の神様からは、とうとう最後まで微笑まれるコトはなかった。
それもあるのだろうか。
彼のサッカー人生は、いつも光と影が交差する。
'94年のW杯アメリカ大会。
イタリアは苦しみながらも決勝まで勝ち上がる。
立役者は文句無しにバッジョ。
特に決勝トーナメントに入ってからのバッジョのプレーは尋常じゃなかった。
ナイジェリア、スペイン、ブルガリアを彼のゴールで次々と下していく。
万全な体調とはとても言えない状態。
古傷がある右足を引きずりながら、得点力不足のイタリアを鼓舞する。
バッジョは、あきらかに背中の10番以上のモノを背負っていた。
そして決勝戦。
相手は王者ブラジル。
炎天下の中、120分間にわたる死闘。
決着がつかず、勝負はPK戦へ。
そして、あろうことか、バッジョは、最後のPKを、外したー。
その瞬間、ブラジルの優勝が決まる。
このたびのW杯、日本の駒野がPK外したよね。
彼のショックは大変なものだろう。
しかしそれはトーナメント1回戦の出来事。
バッジョが外したのは世界一が決まる決勝だ。
しかも外したその瞬間、イタリアが敗れ大会の幕が閉じたのだ。
そのときの彼を僕はハッキリと覚えている。
なにしろゲームは終わってしまっているから、TVカメラもPKを外したバッジョをいつまでも抜くしかない。
残酷な画だった。
両手を腰にあてて、所在なげにやや俯きながら、しばし呆然と立ち尽くす姿。
その胸中は、はかり知れない。
4年後、’98年のフランス大会。
バッジョはW杯のピッチに帰ってきた。
準々決勝の相手は、この大会優勝することとなる開催国フランス。
試合は0ー0のまま、またもやPK戦へ。
最初のキッカーとして登場したバッジョは、今度は見事にキーパーの左にボールを流し込んだ。
しかし、最後のキッカーを務めたディビアッジョの一撃がクロスバーに当たり、イタリアの敗退が決まる。
泣き崩れるディビアッジョのもとへ駆け寄ったのはバッジョだった。
「ジジ(ディビアッジョの愛称)PKを外すってことは、お前がそれを蹴る勇気を持っていたからだ。さあ、家に帰ろう。胸を張ってイタリアに帰ろう。立とうぜ、ジジ」
その手でワールドカップを高く掲げることは出来なかったとはいえ、バッジョは充分すぎるほどイタリア代表に貢献した。
これで代表を引いて、クラブチームに専念しても誰も文句は言わない。
ぶっちゃけ代表に選ばれても給料が増えるワケではない。
所属クラブの監督も実はあまりいい顔はしない。
「ケガだけはしないようにしないとな…」くらいの気持ちで代表に来ているビッグクラブの選手は少なくないのだ。
しかし、バッジョはそうではなかった。
むしろ代表へ対する情熱はますます加速度を増していく。
周囲が呆れ返るほどに。
フランス大会終了後、移籍したインテルでバッジョは控えに追いやられる。
なにしろ当時のインテルの監督リッピは戦術の鬼。
ファンタジスタは嫌いなのだ。
それでも数少ない出場機会でバッジョはきちんと結果を出すのだが、これでは代表には選ばれない。
アズーリは若返りを図っていた。
バッジョがふたたび代表に呼ばれるためには、今まで以上の実績を積み重ねていく必要がある。
'00年のシーズン最終戦、パルマ相手に2点をあげチームを勝利に導くと、バッジョはインテルを去っていった。
彼のもとには、アーセナルやレアル・マドリーやバルサなど、海外の一流クラブからオファーが届いていた。
しかし、バッジョは断り続ける。
何故なら当時のイタリア代表は「セリエAこそ世界最高のリーグ」という自負のもと、国内クラブ所属の選手でカタめられていたからだ。
海外に出てしまうと、たとえ活躍しても代表に呼ばれる可能性はゼロに近い。
セリエAのクラブで結果を残すしかないのである。
だが、スター選手とはいえ右膝に爆弾をかかえた高給取りのベテランに国内のビッグクラブの反応は冷たかった。
シーズン開幕直前、ようやくひとつのクラブがバッジョ獲得に乗り出す。
ブレシアだ。
ブレシアはセリエBから昇格したての超が付くマイナークラブだ。
それでも、バッジョは入団を決意する。
そこには、スーパースターのプライドは微塵もなかった。
「試合にさえ出してくれれば、必ず結果を残してみせる」
この時、バッジョは33歳。
次の日韓W杯まであと1年と9カ月。
ラストチャンスだ。
時間との戦いが始まった。
ブレシアでのバッジョは息を吹き返したように素晴らしい働きを見せる。
一年目のシーズンは25試合に出場して10ゴール。
バッジョから放たれるボールは、まるで魔法がかかっているかのように相手の守備網を切り裂いた。
全盛期にひけをとらない身体のキレ。
バッジョの活躍で、弱小クラブのブレシアはセリエAで7位という上出来過ぎる成績を残す。
観客は蝶のようにピッチを舞うバッジョの姿にため息をついた。
右膝は治ったワケではない。
「なんとかもってる。イケると思う。壊れないでくれ」
当時、バッジョは右膝をさすりながら、記者の質問にこう答えている。
そして2年目、勝負のシーズン。
バッジョの緑色の瞳は、それまでとはあきらかに違う光を放ち始める。
彼の代表にかける思いはこれほどまでのモノなのか。
凄みを増すプレー。
鬼気迫る気迫。
誰もバッジョを止められない。
8試合で7ゴール。
気がつくとセリエAトップの数字を叩き出していた。
こうなれば、世論だってほうっておかない。
「ロビー(バッジョの愛称)を呼べ!」
イタリアでは、バッジョ代表待望論が巻き起こった。
正直なところ、マイナークラブに移籍したバッジョを「ピークを過ぎた過去の人」と醒めた目で見ていたカルチョ・ファンも少なくはなかった。
しかしその文句ナシの活躍ぶりは、もはや誰もが認めざるを得なかったのである。
だが、そんな彼に悪夢が襲いかかる。
ベネチア戦でバッジョは背後からタックルを受けて倒れ込む。
抑えていたのは古傷の右膝ではなく、左膝だった。
いやな感触が残った。
ベンチには下がらず治療を受けてピッチに戻る。
その後も懸命にプレーを続け、後半5分にはPKも決める。
しかし、限界だった。
そのPKからわずか3分後、バッジョは突如ピッチに崩れ落ちるように倒れ、そのまま立ち上がることはなかった。
誰とも接触してないのに。
担架の上でバッジョは呻いていた。
「諦めない。まだ、諦めない」
診断結果は左膝靭帯損傷。
全治3カ月。
バッジョの代表復帰を望む声は、潮が引くように消えていった。
言葉通り、彼は諦めなかった。
古傷の右膝に続き、左膝までが満足ではなくなったというのに。
復帰を次の年(日韓W杯の年)の1月に定め、左膝のリハビリに打ち込んだ。
ブレシア近郊の寂れた運動場に毎日通い、黙々と練習メニューをこなした。
「まだ間に合う。頼むぜ。今日ももってくれよ」
自分の膝を励ましながら、真冬のグラウンドを走り続ける。
オレは代表に戻るんだ。
W杯に出るんだ。
その思いだけがバッジョを支えていた。
そして'02年の1月31日、復帰のパルマ戦。
観客の惜しみない拍手の中、後半から出場したバッジョはピッチを躍動した。
わずか13分間だが。
そう、出場から13分後。
それはまるで3カ月前のベネチア戦のリプレイを見ているようだった。
やはり接触は一切なかった。
突如その顔を苦痛に歪め、バッジョの身体はまたしても地面の上に崩れ落ちた。
凍りつくスタジアム。
ただ事でないのは誰の目にもあきらかだった。
左膝の前十字靭帯が完全に切れた。
半月板と膝蓋骨も損傷した。
ロッカールームに運ばれたバッジョは、あまりの痛みで呼吸困難に陥った。
呼吸困難だぜ。
曲がったまま硬直した膝を伸ばすのに1時間以上かかった。
全身の痙攣が収まり、やっと息が出来るようになった彼は誰にともなくつぶやいた。
「もうダメだ…」
しかし、信じられないことに、彼はもう一度立ち上がるのだ。
これはもはやスポーツの範疇を超えている。
情熱の一言で説明できるモノなのだろうか。
病院で左膝の手術を受けると、バッジョは自宅に戻ることなく、ボローニャにある「イソキネティック」に向かった。
イソキネティックは、イタリア最高峰の医療水準を誇るリハビリ施設だ。
そこで「チーム・バッジョ」が結成される。
W杯までもう時間はない。
「一秒も無駄にできない。無駄にしたくないんだ」
手術から8日後にリハビリを開始。
トレーニングは1日10時間を超える。
それから1カ月後には、イソキネティックのグラウンドに彼は立っていた。
主治医のナンニは言う。
「細心の注意を払って組んだリハビリのプログラムを彼の気迫が覆してしまった。彼を止めることはできなかった。ケガの再発するリスクと常に隣り合わせだったが、不思議なことに計測データは我々の予想を遥かに超えるペースで上昇していった」
「診断結果は全治6カ月。あの手のケガから4カ月以内で復帰したアスリートは過去にひとりもいない。世界中見渡してもね」
常軌を逸した回復力を見せたバッジョは、わずか3カ月足らずでピッチに帰ることになる。
無謀にではない。
そこには、血液成分、心肺機能、筋力数値、そして精神状態などの医学的な裏付けがあった。
「コンディションを示す数値は、'94年W杯当時の彼自身のそれを上回っていました。我々メディカルスタッフは、100%の確信を持ってゴーサインを出したのです」
間に合った。
W杯に、間に合った。
そして4月21日。
フィオレンティーナ戦の後半25分。
ブレシアの10番がついにピッチに戻ってきた。
しかし、試合に出るだけではダメなのだ。
周りに、バッジョ健在を強くアピールするだけのパフォーマンスを観せなければならない。
与えられた時間はわずか20分程度。
スタンドは、固唾を飲んで背番号10を見守る。
しかし、心配は無用だった。
バッジョは、たった20分の間に相手から2つのゴールを奪った。
しかもそのうちの1本は、相手ディフェンダーを背負ったまま身体を反転させて放った左足のボレーシュートという離れワザだった。
轟音のような歓声。
スタンドにいた全員が立ち上がった。
チームメイトに肩車されたバッジョの元にたくさんの人が集まる。
賞賛と祝福の拍手は、いつまでもいつまでも続いていた。
実は、この時点でバッジョがイタリア代表の青いユニフォームに袖を通す可能性はほとんどなかった。
当時のアズーリは、フランチェスコ・トッティとアレッサンドロ・デル・ピエーロという2人のファンタジスタが攻撃の核となっていた。
この2人をどうすれば共存させるコトが出来るか、というのがW杯を前にしたイタリアの最大の悩みだった。
ポジションテストも繰り返している。
そこに同じタイプのプレーヤーであるバッジョが加わると、事態はますます複雑になる。
つまり、余分な駒なのだ。
いかに死にものぐるいで頑張ろうと、アズーリに彼の居場所はない。
それは、バッジョがいちばんよく解っていたのかもしれない。
'02年5月8日。
W杯メンバー発表。
そこに、やはりロベルト・バッジョの名はなかった。
翌日の新聞に、バッジョ落選の理由を「コンディション不良」とするトラパットーニ監督のコメントが載った。
それは、バッジョを後押ししていた世論に対する言い訳にすぎない。
W杯はどうなったかー。
バッジョのいないイタリアは決勝トーナメント1回戦で韓国と対戦。
疑惑の判定もあったが、延長戦の末に格下のチームに敗れ、'02年大会から姿を消した。
ときおり公の場に姿を現すコトはあるものの、引退後のバッジョは愛する家族と悠々自適に暮らしていた。
サッカー界はじめいろんな分野から仕事の声はかかったが、バッジョは丁寧に断った。
相手は残念がったが、それほどしつこく食い下がってくる人はいなかったらしい。
「ロビーは長い休息を取る資格がある」
おそらくみんなそう思っていたのだろう。
しかし、W杯南アフリカ大会。
イタリアはなんとグループリーグで一勝も出来ず最下位という成績に終る。
つい先日、ツイッターでバッジョのイタリアサッカー協会入りのニュースを目にした。
協会側がついにバッジョを口説き落としたのか、それともイタリア代表の危機に彼が自ら腰を上げたのか。
それは解らない。
でも、イタリアは復活してまたその強さを取り戻すのではないか。
世界中の誰よりも国の代表チームにすべてをかけた男が協会入りしたんだから。
彼の情熱が、アズーリに受け継がれることを僕は祈っている。
ロベルト・バッジョのようなサッカー選手を輩出した国に、そうやすやすと弱くなってもらっては困る。
僕はそう思うのだ。