荒地   今回のタイトルの意味は、何となく見当はつきます(笑)。「人間関係が壊れない」ように、政治を語り合える関係をつくるには、「自分づくり」が必要だ、と。

 

 

草野   じゃ、今日はここで終わりにしようか(笑)。

 

 

喜多山  それでもいいんですが(笑)、ふつう「自分づくり」というと、もうそれだけでひとつのイメージがあるような気がするんですよ。書店に行きますと「自己啓発」の棚を見れば、その手の本はズラリと並んでいますよね。このアメブロを検索してもいいんですけど(笑)。

 

今回は、その手の話ではなくて、「街づくり」のためにも「友だちづくり」ができなきゃいけない、「街づくり」のためには「国際政治」の動きを目のすみに入れておかなきゃいけない。そういうつながりのなかで「自分づくり」をするっていうことは、どういうことになるか、ですね。

 

 

久能   わたしたちの研究会では、カウンセリングというのは、「個人」を相手にする場合と、「集団」を相手にする場合があるというのは誰でも知っていますが、「組織」を相手にすることもあるんであって、その場合はどのように考えて、どのように行動すればよいか、ということをずっと話し合ってきました。

 

けれどもわたしは、さらに「社会」を相手にする場合がある。たとえば「街づくり」と呼ばれる活動のなかで、「心理屋」としてどう考えて、どう行動するか、ということで、今回の「街づくり」シリーズを企画したわけです。

 

けれども、その「社会」は、身近な「ご近所づきあい」から始まって、今回のように自分が暮らす街の場合もあるし、もっと広く都道府県、さらには国、そして国と国との関係、そして世界全体に広がっていくわけです。

 

そういう広がりを考えると、世界全体がどう動いているか、ということが、それぞれの国に大きな影響を与えます。それを受けた国の動きは、都道府県に、次いで市町村に、という具合に影響が及んで、それがわたしたちの日々の暮らしに影響してくるわけです。

 

けれどその影響の受け方は、わたしたち一人ひとりで違いますよね。自分が世界全体をどう見るか、そのなかでの日本をどうとらえるか、そして自分が暮らしている県や市をどの程度知っているか、そのとらえ方はみんな違うわけです。

 

そのときに、「なんでこんなことを知らないんだろう、分からないんだろう」と、気持ちが波立つこともありましょう。そうしたときの自分のこころの奥底をのぞいてみれば、かならず「自分が理解できることを理解できない相手は頭が悪い」と思っている自分がいるんです。

 

そういう「頭の良し悪し」というのは、ひとつの「ものさし」であって、それで「上」だ、「下」だと、ランクづけしてるわけです。このことは「般若心経シリーズ」でもお話ししましたが、そういう自分の「ものさし」をいったん脇に置かなければ、「平らな関係」は築けないんです。

 

じゃあ、どうすればいいかというと、「なんで・・分からないんだろう!」を、「なんで・・そう考えるのか?」と、相手のこころの世界を「不思議」に思う、その「分からなさ」を大事にする。

 

そして、相手がどういうふうにものごとをとらえているのか、その背景とか経験はどういうものか、ということを「素朴に」尋ねてみればいいんです。自分が「なるほど」と思うまで。

 

でも、間違っちゃいけないことは、「分かる」ことと「賛成する」こととは違う、ということです。「分かるけど、賛成できない」という場合は、どの点で賛成できないと思ったかを、相手が受け取れるように相手に伝える。

 

そしてそれに対して相手がどういうふうに受け止めたかを、また丁寧に聴く。その繰り返しができるかどうかが、「平らな関係」をつくるポイントなんじゃないか。そういう作業を続けることによって、はじめて相手が、自分の街や、国や、世界について感じていることを聴き出すことができるんじゃないでしょうか。

 

 

草野   わたしがずっと不思議に思っていて、このブログの「国際政治シリーズ」でも問題にしたけど、「心理屋」さんが関心をもつのは、せいぜい「個人」と「集団」どまりだね。「組織」や「社会」は、まるで他人事のように思ってる感じがする。

 

ところが、どんな人だって、その悩みや苦しみの背景に、自分が身をおいている「組織」や「社会」をどう見ているか、という問題があるはずなんだよね。

 

そんなことはカウンセリングのなかでは話題にならない、と「心理屋」さんは言うかも知れないけど、それは「心理屋」さん自身が、そこに関心を向けないからに過ぎないからなんじゃないか、と思うんだけどね。

 

 

喜多山   そうですね。同じことが、「街づくり」にも言えますよ。「政治」が生活のなかの身近な人々との「関わり合い」のなかにも潜んでいる、ということは、自分が日々ふれる人々のこころのなかに、街や、国や、世界の見方がかならずふくまれていると思うんです。

 

昨年来の「コロナ騒ぎ」ではっきり分かったのは、隣の某大国の動きや、アメリカの大統領選挙、そして今の自民党総裁選のドタバタなどについて、お互いが感じていることを語れるのは、「平らな関係」ができている場合だけだ、ということです。

 

面白いことに、そういう関係は「子どもの頃からのつきあい」ですね。つまりは、小学校から中学、高校までの友人関係だけでした。言い換えれば、ある意味で「お互いのバカさ加減をお互いによく知っている関係」と言いましょうか。

 

大学時代の関係になると、もうそこで学年や年齢、当時の学業成績、就職先の知名度、年収なんかによって「優劣のものさし」が働くんです。そういう関係では、情報交換や意見交換はできませんね。それがよく分かりました。

 

 

久能   まぁ、それはそれで「距離の取り方」を学べばいいだけの話で、そうした方々が幸せに人生を終えられるんなら、共に喜んで差し上げればいいんじゃないですか(笑)。

 

 

草野   素直に喜んで差し上げるだけの「自分づくり」って、わたしにとっては、結構ハードル高いなぁ(笑)。

                                       (第49話おわり)