荒地     はじめて喜多山さんにご登場いただいた前々回、今回の「コロナ」の発生源に関する話が出ましたが、今、ネットを検索すれば、「コロナ」の初期に盛んに流れた「人工的に手を加えられたウィルスである可能性」という情報は、意図的な情報操作による「陰謀論」だとする記事にあふれていますね。

 

その点について、喜多山さんは、今はどのように考えておられるのですか?

 

喜多山   この問題については、すでに2月の段階で、「人工的なもの」、すなわち未完成の生物化学兵器の可能性があるという情報と、いや「自然発生的なもの」だとする説が、ネット上で入り乱れて飛び交っていました。

 

これについては、わたしがときどき読んでいた危機管理の専門家の丸谷元人氏の指摘が妥当と考えました。

 

つまり、「可能性がある」というのは、さまざまな情報を結びつけた上での「推測」なので、それを否定する場合には、かくかくしかじかの理由でその推測は誤りである、と述べるべきであり、今の段階では、どちらが正しいとも判断しかねる、というものでした。

 

ただし、とそのプロはつけ加えます。

「危機管理」というのは、確証が得られない場合でも、「あり得る」ことを想定して、それに備える、ということであって、そういう「推測」を否定したら、「危機管理」は成立たない、と。

わたしも、そうだな、と思いました。

 

荒地    わたしがネット検索をして、興味ぶかく思ったのは――これは「陰謀論」にからんでくるのですが――アメリカは、中国が「ヒト-ヒト感染」を隠蔽して、意図的に世界中にウィルス感染を拡大させたとする論が優勢ですが、中国は、アメリカのスパイが武漢でばらまいたと反撃することがありました。

 

これは、ウィルスが人工的なものかどうかという、「科学」に基づく論争とは別の、感染拡大をめぐる「政治」や「軍事」の次元での論争です。

 

この「科学」と「政治・軍事」というふたつの次元の論争がからんでのことですから、文字どおり素人のわたしたちが、この段階で、何が真実なのか、判定できるはずがないんです。

 

喜多山   そうですね。ただし、ここで考えなければならないのは、繰り返しになりますが、どちらにしても「あり得ない」とするのはひじょうに危険だ、ということです。

 

中国が意図的に拡散させた、それは「あり得る」、アメリカのスパイがばらまいた、それもまた「あり得る」、というのが「危機管理」の考え方だと思います

 

つまり、ひとりの人間であれ、国家という巨大なものであれ、どんなことでもしでかすものだということは、人間の歴史を考えてみれば、誰だってわかるはずです。

 

荒地    わたしたちの忘れっぽさについては、このブログでもしばしば取り上げましたが、今から25年前に「地下鉄サリン事件」がありましたね。常識的には「あり得ない」事件だったはずです。でも、「あり得た」わけです。

 

そのときは、自衛隊の緊急出動によって決死の除染作業が行われましたが、その指揮をとった福山隆氏が、今回の「コロナ対応」に対してコメントしてましたが―――これもネットで検索できます――「日本はこの事件から何ひとつ学んではいない」というものでした。

 

喜多山   毒性のきわめて高いサリンの除染に隊員を向かわせなければならなかった指揮官の心情は、察するにあまりありますね。

 

荒地    今回の「コロナ問題」で、わたしが考えざるを得ないのは、どうしてわたしたちの危機意識が、こんなに薄いのか、ということですが、思い至ったのは次のようなことです。

 

わたしが、自分なりの「想定」や「推測」を語ると、すぐにそんなことは「あり得ない」と言うのは、たいていは真面目で、誠実な方々ですね。基本、「人間を信じている」といいましょうか。

 

対して「それもあり得る」という前提で話が進むのは、「しょせん人間、ロクなことはやらない」という見方をする方々です。そういう方々が、不真面目で不誠実だというのではありません。

 

重要なのは、自分が生き延びるためであれば、人間は何でもやる、ということを、人間の歴史や個人的な体験を通じて理解している、ということです。

 

喜多山   それは、ナチス・ドイツが何をやったか、を考えるだけで十分なはずです。「でも、今はあり得ない」とするのは、感覚的には「遠い国の昔の出来事」でしかないんです。

 

それにもっと大事なことは、自分が当時のドイツ国民だとしたならば、果たしてナチスに抵抗したかという、自分に向けた問いを発するかどうかではないかと、わたしは考えますけどね。

 

荒地    わたしも、ひとは自分を守るために平気で嘘をつくもんだ、と思わざるを得ないことは何度もありましたし、自分もその人の立場だったら、おなじかも知れないと思います。

 

戦争にかり出されれば、自分が殺されないために敵を殺してしまうかも知れない――。そういう生き物が人間なのだ、というふうに考えるか、どうか、の問題でしょう

 

喜多山   それは理屈の問題じゃないし、論争で決着がつくような問題でもない。わたしたちひとりひとりが、自分の体験から学んでいくことでしかないと思います。

 

荒地    そういう意味で、「あり得ない」と断言できる方々は、わたしから見ると、幸せな人生を送ってこられたんだろうなぁ、と思うほかはありません。批判する問題でもありません。

 

喜多山   ですから、2月の段階で、施設の責任者に「危ないですよ」とお伝えしたわたしは、他の方々からすれば、「陰謀論」に踊らされたバカな男、と映ると思います。現に、そういうニュアンスの反応はたびたびありました。

 

けれども、今、わたしは――PCR検査を受けていませんから100%確実とは思っていませんが――健康に異状を感じていませんし、施設に暮らす方々にも、スタッフにも、感染者はゼロです。他の方々がわたしのことをどう思われようと、わたしはそれで十分なのです。