愛について | 真のアーティストになり時代のカリスマになる方法

愛について

島田です。

「思いやりとはどこからくるのか」

3回目です。

前回まではブーバーの思想を元に、
現代社会でおきている悲劇の根本と、
「機能」を求められ「期待」に応える
人間を育ててしまうメカニズム、
そしてそんな人間の末路について
お話しました。

今日は、もう少し掘り下げて
話をすすめていきます。

==================

孤独と精神の病

==================

「精神の病」というものが最近、
非常に増えていますよね。

うつ病やノイローゼ、精神分裂病、
恐怖症、不眠症などなど。

心や精神の病で悩む人が本当に
多いです。

では、「病む」とはどういうこと
でしょうか?

ヒントは“ナポリのスーツ”です。

・・・

一流のナポリの職人は服を

皮膚を作っているんだ

という感覚で仕立てるそうです。

ぴったりと身体にあったものに
するんですね。

だから、身体が大きくなったり、
小さくなると違和感を感じて
しまう...

「病む」ということもいっしょで、
違和感を感じる「ズレ」のこと
なんです。

つまり、あるべき姿とズレているから
違和感を感じ、それが「病む」と
表現されていると言えます。

逆に言えば、その人は本当は

「在るべき姿」

を知っているから病むと言えますよね。

「在るべき姿」を知っているはずなのに
自分に嘘をついて

無理して期待に応えようとする
まわりにあわせようとする
結果をだそうと無茶をする

ために「ズレ」が生じるということです。

「在るべき姿」とは「我 - 汝」
の関係のことですよね。

なので、「我 - ソレ」の強い
場所にいる人ほど「孤独感」
強く、病んでいると言われています。

例えば、役に立たない人、数字を
あげられない人を

使えない

という会社などは「機能」を求めて
いるケースが多く、ちょっとした
失敗がその人そのものを全否定
するために疎外されていく...

という話です。

働き盛りの男性の自殺率が
高い要因とも言えますね。

ちなみに、逆である人間の関係の
「我 - 汝」は

ich (イッヒ) - du (ドゥー)

が原文ですが、ドイツ語の2人称
であるdu は仲良し&尊敬が
含まれていて日本語には
なかなかあてはまらないという
ことです。

「あなた」だとよそよそしいし、
「君」だとちょっと見下してる
感じがあり「汝」というそれっぽく
ない感じで翻訳されてるとか。

==================

ブーバー少年と馬

==================

ブーバーの少年時代の話です。

ブーバーは子供のころ、ある馬と
すごく仲良かったんです。

「我 - 汝」の関係が築かれていた
んですね。

馬とコミュニケーションがとれて、
会話もできる、みたいな感じです。

動物を飼ったことある人は
イメージしやすいんではないでしょうか。

ある時、ブーバー少年が
いつものように馬をなでていると、
「馬」自体ではなく、

「馬をなでる自分の手」

に興味が移りました。

その瞬間がまさに

「我 - ソレ」の関係に変わった
時だったのです。

それ以来、少年は馬とコミュニケーションが
とれなくなりました。


つまり、モノになったということです。

モノ 対 モノ

はコミュニケーションがとれないですよね。

猫好きには猫がよってくる

みたいな感じのエピソードです。

モノとなった瞬間、そーゆー関係性に
なってしまうということですね。

==================

愛について

==================

今までのブーバーの話を踏まえつつ、
“愛について”考えてみましょう。

冒頭でお話したユダヤ人の思想家
フランツ・ローゼンツヴァイクが
ここで登場です。

彼は自ら志願して第一次世界大戦に
出征、バルカン戦線の塹壕のなかで
メモ書きをして綴った著書を残しています。

哲学というと難しい本で囲まれて
埃くさい部屋でせっせと執筆...

というイメージがありますが、
彼はアカデミックな道は選ばず、
(大学教員へのオファーを断っている)
ユダヤ人として誇りをもって活動して
いきます。

筋萎縮側索硬化症(ALS)という
筋肉が萎縮してしまう不治の病に
犯され、余命が1年と宣告されても
8年間生きました。

はじめの4年間は執筆作業をして、
残りの4年間をブーバーと聖書の
翻訳をしていたらしいです。

ベッドから机の前へ4時間もかかって、
家族に介助してもらって移動し、
少しずつ執筆していた彼は、
特注のタイプライターの前で息を
ひきとったそうです。

・・・

そんな彼がふと思ったことがあります。

従来、神というのは無償の愛の象徴だったが、

「愛することは、愛する対象がなくても
可能なのか?」

ということです...

どうでしょうか?

可能でしょうか?

彼は、最終的に

「愛する側も、愛される側に依存している」

という結論に達します。

つまり、

愛は抽象概念ではなく、現実において意味の
ある力のある「現象」である

ということなんです。

マザーテレサを尊敬し、いっしょに世界中に
愛をばらまきたい、という人がいたそうです。

その時の会話が

「世界中の人を愛したいのですか?」
「はい。いっしょに世界の人々に愛を届けたいです。」
「ならば、今すぐ家に帰ってあなたの家族を愛しなさい。
 それが世界中を愛するということです」

みたいだったとか。

要するに、ローゼンツヴァイクもマザー・テレサも

愛せる人から愛しましょうよ!

ということですよね。

「愛する」というのはふわふわしたもの
ではなく、相手との対話によって
うまれる双方向のコミュニケーション
によるものだ、と言う結論です。

ブーバーの考えににてますよね。

それは彼らが仲良しだからだそうです。

というか“似てる”と思って
仲良くなったらしいとか。
(※ でも全く同じ考えではありません)

==================

ブーバーとキルケゴール

==================

キルケゴールです。

「絶望は死にいたる病」

などと言った哲学者ですよね。

そのキルケゴールは、実は
婚約を破棄した過去があるんです。

婚約を破棄して、神に祈り続けて
「愛」を求めたんですね。

ブーバーはキルケゴールの仕事を高く評価
しながらも誤りを指摘しています。

「キルケゴールは婚約者を
愛することによって、神と出会うべきだった」


と。

神はロジカルでは測定できないし、
汝を捨てたら「愛」から遠ざかるではないか!


と、言いたいんです。

相手があっての自分。

その相手を捨てて、不確かなものにすがっても
そこに答えはないよ、と。

相手と人間としての関係を築いて、
「愛」がうまれる

そんな感じです。

そして、問題なのが

「自分」は相手によって規定される

というところですよね?

つまり、こちらからは関係を築けないのに、
むかつく奴や嫌な奴とはどうつきあって
いけばいんだ!?的な疑問が浮かびます。

●●したら、愛してあげますよ

みたいな取引をせずに、どうやって
関係性を築いていくのか

そのあたりを次回ラストでお話したいと
思います。

というわけで、次回は

「嫌な奴を改心させる方法」

からはじめます。

次回でこのテーマ最終回です...


島田晋輔