現代社会の悲劇 | 真のアーティストになり時代のカリスマになる方法

現代社会の悲劇

ども、島田です。

時間が経ってしまいましたが、
前回の続きを書きます。

本当は一回で書ききるつもりでしたが
まだ3分の1くらいしか書けてないです。

・・・

さて、まずは前回のおさらいですが、
ブーバーの理論で

僕たちは「誰か」や「何か」というものに
関わってはじめて「自分」ができる

というお話でしたよね。

そして。

“自分自身は相手に規定される”

というところがポイントでした。

例えば、

買い物に行ったら、
店員の前では「客」になり、
家に帰って子供の前で「親」になり、
車を運転するときは「運転手」となる

というように、相手側に「こちら」が決められる
(向こうが勝手にあわせろ、としてくる)

という話でしたよね。

その上で

「人間 対 人間」
「物 対 物」

の二つの関係の中で僕たちは生きていて、
「人間」を相手にすることによって、
はじめて「人間」となり、

相手を「道具」として見たときに
こちらも「道具」として見られる


という話で終わりました。

今日はこの話を踏まえて、

「現代社会の悲劇の根本」

に話を進めていきたいと思います。

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現代社会の悲劇の根本はどこにあるのか

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突然ですが、あなたには親友と呼べる人が
何人いますか?

5人ですか?

3人ですか?

1人でしょうか?

。。。

アメリカの調査では、現代人の親友の
人数は平均0.75人と言われています。

そう、ほとんどの人が親友は1人も
いないと感じているのです。


そして、まさに現代社会の悲劇の根本は

孤独・疎外

にあります。

「孤独」に関しても奥が深いので、
またいつか別でゆっくりお話したいですが
とても重要な問題でありますよね。

他人事ではなく今、自分たちが
直面している話だと思います。

では、孤独や疎外の根本は
どこにあるのでしょうか。

はい。

「我 - ソレ」

という関係なんですよね。

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「我 - ソレ」関係が生むもの

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ここまでの話でおわかりだと思いますが
「我 - ソレ」の関係が生み出すのものは
孤独です。

「ソレ」とは、単に「モノ」であり、
「モノ」とは純粋に「機能」に還元されるからです。

「機能」ということは、つまり
役にたつかたたないか。

パーツや部品の機能と言えば
わかりやすいですかね。

能率や効率、性能などとも
いえます。

いかに効率的に目の前の数字をあげてくれるのか


なんていうのが「機能」面をよくみている
言葉ですよね。

では、次に。

僕たちのまわりにある「機能」しかみない
「我 - ソレ」の関係をみてみましょう。

例えば、家庭問題。

ここでも「我 - ソレ」の関係があります。

うまれた時は人間ですから、
やはり「愛」がほしいのは当たり前ですよね。

人間として、根底に「愛」を求める欲求が
あるのは自然です。

ですが、「我 - ソレ」の関係が
助長された現代社会だと...

親は取引(交換)を子供に
持ちかけているのです。

●●をしたら(しなかったら)愛してあげますよ

というふうに。

例えば、

いい点をとったら、愛してあげますよ


悪いことをしなかったら、愛してあげますよ


1番になったら、愛してあげますよ



といった感じでです。

子供はもちろん親の愛がほしいから
期待にこたえようとして「機能」を磨きますよね。

となりのあの子より、早くやろう

こんな感じでです。

誤解してほしくないので、断っておきますが

こんな親子はバカヤローだ!

と言いたいわけではないですよ。

むしろ、普通に日常にあふれている
ことじゃないですか?

ですが、

これが「我 - ソレ」の関係が
助長された現代社会の現実です。

・・・

では、「機能」を磨いた子供は
どんな大人になっていくでしょうか?

そうです。

仲間や親や先生などの“期待”に答えよう
とするようになります。


誰よりも早く、誰よりも強く、誰よりもいい数字を...

と考え一生懸命「機能」を磨くのは、
相手の愛がほしいからなんです。

ごく自然な流れですよね。

そして。

もちろん「機能」しか磨かずに大人になっていくので、
相手に値踏みされる「我 - ソレ」の関係でしか
人間関係を築けなくなってしまいます。

「機能」の面だけしかみれず、相手の存在自体を
認められないのです。

「結果を出さない社員は捨ててしまえ!」


なんて言うセリフがまさに「我 - ソレ」人間を
あらわしていますよね。

モノとしてみているので、役にたつか、たたないか
「機能」の面だけをみているということです。

もちろん役に立たなければ、代わりのパーツを探して
くるだけ。

壊れたら部品を代えればいい。

というのが「我 - ソレ」人間の普通の考えです。

切れた電球をつけっぱなしにしておいても
意味ないですから。

という価値観が当たり前になっています。

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「我 - ソレ」人間の末路

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子供のころから愛を求めて、
一生懸命「機能」を磨いた「我 - ソレ」人間
はどうなっていくでしょうか?

答えはシンプル。

機能こそが価値であると信じている人は、
現代社会において、

「失敗 = 存在の否定」

になります。

ある一面の「機能」しか価値がないので、
機能不全になった時は、全てを失う

ということです。

合格できなかった
時間に間にあわなかった
忘れ物をした
期待に答えられなかった

などなど...

一面がモノとして機能しなかったので、
ちょっとしたミスが
存在そのものの否定につながると言うことです。

これは、

「心が弱い」
「打たれ弱い」

だけでは済まされないことですよね?

人を愛することも愛されることもできない
ように育っているのです。


孤独に陥る現代仕組みの社会に
生きている

そして、僕たち一人一人もその一員だと
いうことは忘れないでいきたいですね。

というわけで、この後は

「孤独と精神の病」
「ブーバーとキルケゴール」
「宮崎の口蹄疫問題について」

と続けていきたいのですが、また長くなって
しまったので今日はこの辺で。

続きはまた次回書きます。


島田晋輔