思いやる心はどこからくるのか? | 真のアーティストになり時代のカリスマになる方法

思いやる心はどこからくるのか?

今日はいい天気でしたね。
(といっても朝になってしまいましたが)

5月ももう半ばですよ。

僕は今日、東京で素晴らしい講義を
受けて、いろいろ伝えたい事が
でてきたので久しぶりに日記を書いてみます。

・僕たちの置かれている危うい立場
・他人との関係性
・現代日本社会への警鐘


といったわりとヘビーな内容も
含んでいますが、
どうしても“今”伝えたくて寝ずに
書くことにしました。

それくらい大切な話だなって
思ったからです。

いっしょに講義を受けた友人は

「もう絶望だ...どうしようもない」

と嘆いていましたが、僕はまだまだ希望が
あると思っています。

「希望」のために僕たちの置かれている立場を
しっかり直視しないといけないんじゃないかな、
と思って今から伝えようと思います。

テーマをお話しすると。

家族や友人、大切な人を思いやる
気持ちとは何なのか。

「愛」とは何なのか。


といった感じです。

一見すると、うさんくさいふわふわした
感じの印象を受けるかもしれませんが、
ロジカルな話ですので
偏見を持たずにナチュラルな気持ちで
読み進めて下さい。

テーマが壮大なので、もう少し絞ると

マルティン・ブーバー

という思想家を手掛かりに
現代ニッポンを紐解く相手への思いやり

といった感じでしょうか。

ブーバーは14歳でプラトンを
読破し、15歳でカントを読んでいたとか。

最終的には10ヶ国語を操り、
のちに紹介するローゼンツヴァイク
という人と新約聖書を新しく翻訳し直したり
した人で、天才だけど頭でっかちではない
人格者だそうです。

では、さっそく。

まずは、問いです。

----------------------------------------

【問い】

「相手を思いやる」
「相手を愛する」
「相手本位になる」

とは、具体的にどのような状態か?

またどうすれば可能になるのか?

----------------------------------------

今、どういう風に思っているか
紙にペンで書いてみて下さい。

・・・

・・



いいでしょうか?

これからお話ししていくのは...

なぜオッサンの自殺者が多いのか?
うつ病大国日本と言われるのか?
民主党は悪なのか?

といった事に言及し、
他人との関わりを見直していこう
といった内容になっています。

この記事を全部、読み終えた後と、
先ほど書いた紙に書いた考えが
変わったのか、もしくは全く
変わらなかったのか

試してみて下さい。

====================

「思いやる」「愛する」ことの
スタート地点はどこか?

====================

1:少なくとも第一人称と第二人称が存在している

2:「いま、ここ」


この2つを満たしたところが
スタート地点となります。

この2つをスタート地点として、
ブーバーは、

僕たち人間は「二つの世界」に生きている

と言っているんですね。

それが

「我-汝」の世界
「我-ソレ」の世界


の2つの世界です。

この2つの世界に僕たちが生きている
ということを押さえた上で...

====================

「我それ自体」の不在性

====================

を共有しておきましょう。

何かというと。

ブーバーは

『我それ自体は存在しない』

と断言し、

『存在するのはただ根源語「我-汝」における
我と、根源語「我-ソレ」における我だけである』

と言っているんですね。

つまり、

「我-●」における●の方が、
「我」を規定するということなんです。

これは西洋でスタンダードなデカルトの

「我思う、ゆえに我あり」

という有名な命題の逆の事を言っています。

要するに

誰かや「何か」と関わってはじめて「自分」が存在する
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ということですね。

わかりやすく言えば、相手がいて、
はじめてアイデンティティが確立される

という考えです。

ここまでいいでしょうか?

まだ、もやもやしていると思うので続きを。

何かと関わって自分が存在するなら、
「我」には2種類あるということになりますよね?

一つ目が「他者としての人間」が規定する「我」
ですよね。

「我-汝」の世界です。

例えば僕で言えば、

ライブの時は、お客さんにとって「演奏者」である僕
実家に帰って、親の前では「息子」としての僕
弟の前では、「兄」としての僕

といった感じです。

では、

「我-ソレ」の世界における「我」
とは何でしょうか。

先ほどの人間が規定する「我」の特徴が
社会性だとしたら、「モノ」が規定する
「我」の特徴は何かわかりますか?

例えば、

ボールペンにとってのあなたは?
パソコンにとってのあなたは?
花瓶にとってのあなたは?

ちょっと難しいかもしれませんが、
少し考えてみて下さい。

・・・

・・



いいでしょうか?

もしわかったらすごいですが。

答えは

モノに対している時はモノになる
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


ということです。

例えば、パソコンとは対話できず
パソコンにあわせなくてはいけないですよね?

自分の考えを先読みしてタイピングしてくれません。

パソコンに僕らがあわせるしかない

というのが「我-ソレ」の大きな
特徴です。

つまり、非人間的な

「モノ対モノ」の関係になってしまう

ということです。

自分というものはモノや人間など

「相手」が決めている

という事を押さえて下さい。

怖いですよね。

自分が非人間的になってしまう
ということですから。

これらを踏まえた上で、次です。

====================

世界は人間の二重の態度に応じて二重である

====================

の意味はわかるでしょうか?

わかりやすく例をだすと、

親の前では「息子」にしかなれないし、
ボールペンやパソコンにもこちらが
あわせなければならない

ということです。

要するに

向こう側ががあわせろよ

とこちらを規定してくるという事なんですね。

そして、ここが重要なのですが。

人間を相手にすることによって、人間になる

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

と言えるんです。

もっとはっきり言えば、

相手を「道具」としてみた時、こちらも「道具」としてみられる

ということです。

なぜなら、

「 人間 - モノ 」の関係は築けないからです。

相手が「こちら」を規定してくるので、
相手をどう見るかによって、自分自身も
どうみられるかということになります。

すごく怖い事ですよね。

この考えで現代社会の悲劇の根本

に話を進めたいですが、長くなってしまいましたので
また近日中に続きを書きたいと思います。

これだけだとまだすっきりしないかも
しれませんが、もう一度自分と他人の
関係を見直してみて下さい。

では、また近日中に。

島田

PS:

あ。

誤解してほしくないので、ここで
断っておきますが、ブーバーの考えが
正しいというわけではないですよ。

こういう考えもあるんだな

と、自分の思想に取り入れて、
今目の前に起きている事をもう一度見直して
いこうということですので。