佐世保事件をはじめとするマスコミの弊害(2/3) | No panda,No life ★ OSAKA

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前回・・・

私は普段からマスコミの報道には振り回されないように、新聞は最低四紙は読むようにし、テレビのニュースにしても色々な局の番組を見るようにしています。

と申しますのも、昨今のマスコミの報道に誠実さや真摯な態度を感じないからです。

先日の理化学研究所の男性が同社で自殺をした件もそうです。

私はそのニュースを報道ステーション(テレビ朝日)という番組で見た時に驚きました。

それまでの同番組では、メインキャスターがその男性の事を、如何にも研究論文を捏造したかのごとく扱い、まるで悪の権化のように糾弾したり等、言挙げしていたにもかかわらず、亡くなったとたん掌を返し、「ノーベル化学賞の最有力候補の男性が亡くなられました。」「非常に残念です。」等の上滑りの言葉の羅列です。
少なくとも私にはその様に聞こえ胸が悪くなりました。

実際その方がSTAP細胞に見つかった問題点についてかかわっていたのか、そうでないかは、亡くなってしまった今となっては真実を知る事は難しいでしょう。

私たち日本人は儒教の精神を教えられていますので「死者に鞭打つ」事をしてはいけないという教えが体に染み付いています。
しかし、それが報道に携わる立場の者としての態度とした場合、本当にそれでよいのでしょうか?

最近の報道機関はまるで捜査権限を持っているかの如く、報道対象者を追い詰めるように取材をしていることもあるようです。
私はそれに対しても若干行き過ぎなのではないかと思っております。勿論、報道機関にもそれなりの理由があるのでしょう。

しかし、それは本当に報道に携わる者の使命感からなのでしょうか?

私には報道機関の顔は私たち視聴者よりも、視聴率という数字の化け物に怯え、スポンサーに向いている気がしてならないのです。
ですから記者などが、子供っぽい質問をしてみたり、執拗に同じ事を繰り返し質問したりしている様は、メディアリテラシーの低さを露呈していますし、安易に視聴率を稼ごうとしているそこには扇情的な思惑を感じずにはいられません。

もし本気で報道機関が使命感故に報道をしているのであれば、例え視聴者から非難を浴びようとも、自殺した男性に対して「この男性は責任を取らずに自殺しました」とか、「真相を闇の中に一人で持っていくという卑怯な事をしました」等と非難をする報道のひとつがあってもおかしくはないと思うのです。
それが真実を伝える報道に携わる人間として当たり前の姿勢だと思います。

ところが、その方が亡くなられた途端に掌を返すが如く美化してみたり、惜しんだりするのであれば、報道機関としてのあり方に対して不信感を持たれてもしょうがないのではないでしょうか。
視野狭窄に陥らないようにするためにも、足並みを揃えた報道にはむしろ疑ってみることも時には必要かも知れません。

先日のブログでも報道機関のいい加減さについて書きましたが、今回の件も含めやはりモラルもポリシーも感じられないことにはがっかりです。



3/3 へ続きます・・・






ほな!