裁判員制度はほんまに必要か? | No panda,No life ★ OSAKA

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裁判員制度については、これまでにこのブログでも何度も疑問を呈してきました。

千葉県松戸市で女子大生が強盗殺人放火の犠牲となった凄惨な事件は、皆様の記憶にも新しい事と思います。
この被告は以前にも強盗・強姦事件で懲役7年の判決を受け、出所後わずか一ヶ月足らずで事件を起こしました。
(参照:松戸女子大生殺害放火事件Wikipedia

この事件で死亡した被害者は一人ですが、“先例”を重視しても尚、この被告人を将来において社会に野放しをする事の恐怖と理不尽さを考えた結果、裁判員の方々は死刑判決を出したものとして、当時話題になりました。

そして昨日、一審の裁判員裁判で死刑判決が下されたにもかかわらず、二審の高等裁判所ではそれは破棄され、被告人に無期懲役が言い渡されました。


理由は、死刑判断は“先例”を尊重すべきという観点からのようです。

“先例”とは過去の裁判官の判断という意味です。

司法も縦社会です。

と言う事は、“先例”を覆す、それを無視をするという事は、先輩を蔑ろにするという事になります。
そこに裁判官としての矜恃はあるのでしょうか。

一審のその判決に至るには、裁判員の方々の苦渋の判断があった上に、極めて重い判決が下されたであろうことは私にでも容易に想像が付きます。
この様なつまらない慣例ありきで判決を覆されるようであれば、被害者遺族の方々も裁判員の方々もたまったものではありません。

そもそも裁判員制度を用いるようにした背景には、先例主義に囚われないようにする為と、裁判官と一般市民の常識の乖離を埋める為という理由があったはずです。

私は、裁判員制度を導入すると聞いたとき、ある意味驚きと期待を持ちました。
もし自分が裁判員に選ばれたら、その時は一生懸命に考え、そして誰もが納得の出来る判決を出すように努力をしようとも思っておりました。

それは元々司法が御旗として掲げてきた“先例”を無意味なものにする為にこの制度を導入すると思っていたからです。

ところが今回の事件のように実際には裁判員が出した判決を覆して、“先例”・判例に従うという判決が下されました。

このようなことが続けば、国民の司法に対する理解と信頼は深まるどころか遠のいてしまうのではないでしょうか。
裁判員制度を導入した本来の趣旨が揺らいでいると言えます。


結局のところ、死刑求刑という判決が下されるには、二人以上の殺人が最低要件であるようです。


国民の量刑感覚を蔑ろにし、先例に則るという判断を下すくらいならば、嫌な思いをして長時間拘束を余儀なくされ、場合によれば、神経症を患ってまで判決にかかわってこられた裁判員の方々の労力は、一体何の為に必要なのでしょう。


こんなに簡単に判決を変えられるのは、元々裁判官は一般市民である裁判員を信用しておらず、所詮素人だと頭から決め付けているからだと思うのです。

私はもし裁判員の呼出状が来ることがあれば、辞退ではなく拒否をするつもりです。
それは狭い社会の中で権威という鎧を着た方々の自己満足の為に呼び出されるのは到底納得が出来ないからです。

今現在、わが国を含め世界的にも犯罪は凶悪化する傾向であり、そしてそれらは多岐に渡り起こっています。

わが国の司法は私の見る限り、司法が犯罪の多様性に追いついているとはとても思えません。
勿論、法律そのものがそれに追い着いていない訳ですから致し方ないのかも知れませんが、だからこそ導入した裁判員制度を真っ向から否定するような判決を裁判官が下していいはずがありません。
私は苦しくそして嫌な思いをして「死刑判決」を出された裁判員の方々に頭が下る想いです。

この裁判は最高裁に持ち込まれると思います。
その時に、わが国の司法最高機関である最高裁の裁判官が、何故裁判員制度を導入したかをよく考え、“先例”などという過去の亡霊に縛られる事なく、世間一般の常識が反映される事を切に望みます。





ほな!