体罰とは | No panda,No life ★ OSAKA

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たまにまじめネタ、基本はおおさか・うろうろもぐもぐのゆるーいブログです。

大阪市立桜宮高校の事件以来、日本のあちこちで体罰が問題視されてきています。

これはある意味、非常に良い方向だとは思うのですが、しかし、未だに体罰を容認している教職員・保護者・生徒がいることに、私は正直驚いています。
何故ならば、世間はもっと体罰に対して敏感になると思っていたからです。

「体罰」と言うと教育の一環のように思われがちですが、これは立派な暴力事件です。

以前のブログにも書きましたが、「いじめ」の言葉の響きは、遊びの延長線上にあるように思いがちですが、実際は立派な集団暴力による犯罪です。

何故、指導者等が「体罰」をするのかを考えられた事がありますか。

それは指導者の只単なる感情の表現でしかありません。
そのような「体罰」をする指導者は、自身の理論や技術力を、子供たちに言葉で伝えることが出来ないほど、稚拙で貧弱な脳の持ち主であることを忘れてはいけません。

「体罰」を容認するような発言をされている方々の意見は、「あの顧問が来てからクラブが強くなった」「あの先生確かに体罰はするが、どこをとっても素晴らしい指導者です」等です。

「体罰」をするような教師(顧問)が本当に素晴らしいのでしょうか。

その顧問の指導の下、強くなった生徒は良いでしょうが、その指導に耐えられなくなって辞めた生徒はどうなるのでしょうか。
落ちこぼれだからほっておけばよいと言うのでしょうか。

本当に素晴らしい教育者は「体罰」等という暴力を振るわないと私は思っています。

私の学生時代にも「体罰」をする教師がいました。
ある時に、生徒会でその教師の件が議題に上り、そこで交わされた議論は、最終的にはPTAと職員会議に報告することになり、結局その教師を退職に追い込みました。
私の学校は、生徒会にある程度の独立した権限があったから出来た事かも知れません。

「体罰」をしてクラブが強くなる。
そこで強くなったことで、生徒と指導者の絆が生まれ、「体罰」はいつの間にか「愛の鞭」という言葉に置き換えられてしまう。
とすれば、そのクラブが強くならなければ「体罰」は只の暴力になるわけです。
「あの教師は暴力教師だ」という言葉を、私は今までに何百回と言うほど聞いてきました。

皆さんよく考えて下さい。

「駄目なものは駄目」なのです。
暴力は絶対にあってはならないのです。

アドルフ・ヒトラーは恐怖政治を敷くことで富国強兵をし、世界をドイツ帝国の傘下に治めようとしました。
そして自分の強さを世間に知らしめるためと、自分の弱さをさらけ出さないために、罪も無い沢山のユダヤ人を殺戮しました。

これは一見関係の無い話題のようですが、規模の違いだけで、行われていることは殆ど変わりがありません。

強くなればそれで良いのか?

もしその理論が正しいのであれば、チャールズ・チャップリンの映画「殺人狂時代」の中で、主人公が言う台詞に「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が(殺人を)神聖化する」と同じになってしまいます。

一人殺そうが百万人殺そうが殺人は殺人です。

強くなることが必須条件ではなく、強くなるように指導することが必須条件のはずです。
強くなるよう指導するのに「体罰」は要りません。
指導者の論理と技術力を言葉で伝えれば必ず理解できるはずです。


昨晩、元ジャイアンツの桑田真澄さんが「絶対に暴力はいけません。選手が間違ったプレーをしたから殴っても良いなら、監督や顧問が間違った作戦を立てたから殴っても良いと言う理論になってしまう。それはいけない事ですよね。」と仰っておられました。
その通りだと思います。

「体罰」はどこまでいっても暴力です。
「いじめ」はどこまでいっても集団的暴力です。
「万引き」は立派な窃盗です。

言葉の響きに騙されないで下さい。

どれをとっても被害者は心に想像以上の傷を負います。
この世に「愛の鞭」などという暴力は存在しません。

もし存在するとすれば、それはあくまでも言葉で叱ることで相手に理解をさせ、相手が今自分の置かれているステージよりも上を目指そうとする気持ちにさせることではないでしょうか。



それでは。