仏教の根幹は、因果の道理です。


蒔かぬ種は、絶対に生えませんが、蒔いた種は必ず生える。

自分の蒔いたものは、必ず自分にやってくる。


そんなこと位、よく知っているよ。と私達は思っています。

ところが・・・・・・


高森顕徹先生の『白道燃ゆ』から、教えて頂きました。


◎わかっちゃいるけど、やめられぬ


 昔、中国に、何時も樹上で、坐禅瞑想していた鳥巣という

僧がいた。

 ある日、儒者で有名な白楽天が、その樹下を通って、

一つ冷やかしてやろうと思った。

「坊さんよ、そんな高い木の上で、目をつむって坐っていて

は、危ないではないか」

鳥巣すかさず、

「そういう貴殿こそ、危ないぞ」

と切り返した。

 この坊主、相当偉いのかも知れぬ、と見てとった


白楽天は、

「私は名もなき白楽天という儒者だが、貴僧の名を承りたい」

と尋ねると、

「私は鳥巣という名もなき坊主だ」

 これが有名な鳥巣禅師と知った白楽天は、かねてから

仏教に関心を持っていたので


「いゝ処で貴僧に遇った。一体、仏教とは、どんなことを教えているのか、一言でおきゝしたい」

と頭を下げた。

鳥巣は即座に、

「もろもろの悪を為すことなかれ、謹しんで善を修めよ、と

教えるのが仏教である」

と答えた。


 白楽天、いさゝか呆れて、

「そんなこと位なら、三才の子供でも知っている」


と冷笑すると、鳥巣すかさず、

「三才の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行なうは難し」

と大喝している。

 仏教を一貫するものは、因果の道理である。善因善果、悪因悪果、

自因自果は、三世十方を貫く真理である。

 この真理に立って、廃悪修善を勧めるのは当然のことである。


 しかし、善だと知りながらも善が行なえず、悪だと知りながら

悪を止められないのが、我々の悲しい現実である。

「飲めば出るくせ承知で飲んで、出さぬ気で出る悪いくせ」

やればよいこと判っているが仲々できない。

(中略)


 いけないことだと泣きながらも、無間のドン底から噴き上げる

悪性の炎は、学問や教養や修養のコップの水位では消せる

ものではない。

 科学や哲学、道徳、倫理、一切の学問の限界がそこにある。

「定水を、こらすと雖も、識浪しきりに動き、心月を観ずと雖も、

妄雲なお覆う」

「悪業をばおそれながら即ち起こし、善根をば、あらませども

得ること能わざる凡夫なり」

 親鸞聖人の悲泣も、判っちゃいるけど止められぬ、この

人間の限界に打ち当たっての悲痛な叫びであった。

 しかし、聖人は救われた。二十年の血のにじむ、聖道自力

の仏教でも打ち破られなかった鉄壁が、阿弥陀仏の本願力

によって打ち破られたのである。

「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、偏に親鸞一人が

為なり。さればそくばくの業を持ちける身にてありけるを、

助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ」

「念仏者は、無げの一道なり。信心の行者には

天神地祇も敬伏し、魔界外道も障げすることなし」

 かくて、万人救済の大道は開かれたのである。