昨日は大人クラスのお稽古の日でした。Nさんの選んだ書は「智永」の「関中本千字文」。「先生、うまく書けないけどすごく気分がいい、楽しいです!」の発言にとてもうれしくなり、美と細胞のお話をしました。

 

人は誰でも美しいものを見ると、ついしばらく見とれてしまいます。花でも女性でも、思わず振り返って見てしまいますよね。それは人としてごく正常な反応です。これは美しいものだから眺めることにしよう、なんて意識ではなく、思わずそうしてしまったという結果なはずです。

師曰く、「美しいものを見ると、人のゆがんだ細胞は修正され元気になる」とのこと。つまり細胞が美を求めているということです。

心法書道の第一歩として、自分が一番美しいと思う書を選びますが、その理由はほかでもなく、自分の細胞を喜ばせるため。自分の体の中で自分のために働いてくれている細胞たちのゆがみを正常に戻してあげるためです。

好きな書を見ていると、全く飽きないし、ひたすら心地いいものです。誰かにこれがいいからとすすめられて、ぴんとこない書を学んでも細胞は喜びません。

 

さて、そもそも「美」とは何でしょう?中国の考え方は、漢字をひも解けばわかることがたくさんあります。「美」は、上に「羊」、下に「大」と書きます。「羊」を用いた漢字に、「善」という字もありますね。

「羊」は神に捧げる生贄、それを台に載せている状態が「善」のもともとの形です。つまり「善」とは、必ず犠牲が伴うということ。犠牲なくして「善」ではありえない。何の痛みも感じないでできることは、「善」ではないと言っているわけです。ですから、「善」を行うことは容易なことではありません。その反対に、「悪」に染まることは容易い。だから「悪党」という言葉はあっても、「善党」という言葉はない。「善」を行うことは、厳しく、孤独なものだということでしょう。

 

「美」にもどります。「羊」に「大」、つまり「美」は、多大な犠牲によって成り立つということ。「美」は、悪い意味で使うことはありませんね、なるほど、「善」と同じ仲間なわけです。「美」は簡単ではない、だからこそ、芸術は尊いのでしょう。しかしながら、どんな芸術も自然の「美」には敵いません。自然の万物はすべて循環しており、他の犠牲によって自らが生かされ、また自分が犠牲になって何を生かしていきます。自然の原則、それは犠牲抜きには語れないのですね。

 

それにしても、どうして生贄が羊だったのでしょう?羊は草食動物ですが、草の根まで食べつくしてしまいます。根まで食べつくすと、次に草が生えてくるまでかなりの時間がかかるそうです。だから牧羊は、ひとところに留まることはできず、草のあるところへと移動しなくてはなりません。そうやって育った羊は、それはそれは貴重なものだったはずです。だからこそ、生贄にふさわしかったのではないかと私は推測します。

 

Nさんから庭に咲いたというシランのお花をいただきました。さっそくリビングに飾りました。美を愛でることを続けていこう、細胞たちのためにも。

 

 

 

via 心法書道
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