法華院温泉とそこに続く石畳(2)九重山域の古道 | 良田 寛(ペンネーム) 新老いらくの記

良田 寛(ペンネーム) 新老いらくの記

いつのまにか「老いらくの記」という言葉が似合う、それなりの歳になってしまいました。
精一杯生きてきた事を何かに残したい、足跡を何かの形で残したいと思っています。

 昨年11月に書いた「法華院温泉とそこに続く石畳」の後、九重の古道について調査を進めてきた。基本調査の内容は古い文献になる。熊本県内の図書館にあれば良いが、そう簡単にはいかない。
 さて、九重の山域がいつくらいから開かれたかというと、これもまた難しい。中世の頃より九重は信仰(火と水)の対象であり、当時6院16坊があったと記されている。その後近世に入り、猪鹿狼寺(久住山南側直下)、法華院(坊ガツル)、金山坊(硫黄山)、国恩院(大船山)が信仰を集めた。法華院は1470年開基と言われている。ただその前にあった歓喜院がその前身ではないかとも言われているが、正確なところは分からない。当時法華院には支院があり、上の宮が中岳直下の御池湖畔に、中の宮が北千里浜にあり、こういった寺院・支院への参詣を「岳詣り」と言った。古の参詣道は現在のそれぞれの登山道へ続くものと思われる。
 当時の法華院への本参道は、九重南側の塔立村(現久住町栢木(かやぎ))から入っていく。いわゆるレゾネイトクラブ登山口だ。そして鍋割坂、佐渡窪、鉾立峠を通り坊がツルへと続く。吉部からの林道ができるまでは、この道を馬が物資を運んでいた。そして道は雨ヶ池を越え田野村(長者原?)に抜ける。
 現在は牧戸峠や長者原が主な登山口になっているが、これはやまなみハイウェイやJR久大線ができた後の話になる。
 このレゾネイトクラブ登山口から法華院を通過し、長者原へ抜ける古い道は現在の九州自然歩道になっている。全く同じルートであるかは分からない。
 坊がツルから雨ヶ池越へ上がっていく途中にある石畳も真相が判明した。九州自然歩道を管理している環境省 九州地方環境事務所の方の話によると、
「平成20年頃、当時坊ガツルにあった避難小屋の撤去に際し、その避難小屋の資材であった石をぬかるみの激しい部分の補修に利用し、石畳のように並べた。」
道そのものは中世から続く古い道だったが、石畳は古道の痕跡ではなかった・・・。

参考文献
豊後国志 1803年作成
豊後国古城蹟并海陸路程
英彦山と九州の修験道 1977年発行
久住の自然と歴史 1998年発行

 中岳山頂から見た御池(みいけ)。かつて御池湖畔に法華院の支院があった