お母さん、もう一度私の名前を呼んで

お母さん、もう一度私の名前を呼んで

アメリカに移住した21歳の私。22歳の終わりに母の若年性アルツハイマー型認知症を当時の私が発見。そして30歳で帰国。その現在までの出来事、思う事、教わった事、思い出した事。忘れたくないから書く。辛い事を辛いままにしたくないので書く。

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一昨年の11月。



忘れもしない11月19日月曜日。
休みだった私は朝から夜まで予定があり、朝の予定を終えて、美容学校時代のクラスメイトだった3人と合流。
11月だというのに暖かくて、外で友達の子供が走り回ってるのを見ながら外でランチ。


食べ終わって子供達と遊んでいたら携帯に着信が。
スクリーンを見れば「実家」の文字。
こんな時間に電話が来るなんて珍しく、少し胸騒ぎを覚えながら電話に出ると
少し暗めの父の声が。


そこから驚きの言葉が。
母に悪い事が起きていると、心の震える事実が・・・


「週末に熱が出始めて、熱が上がり続けている。
 解熱剤を入れたけど、熱が下がらなくて。
 おかしいから医者にも見てもらったんだけど、本人が話せないからわからない事が多いらしい。
 ベッドごと運んで検査もしてもらった。内臓に菌が入ってしまった可能性が高いって。
 今できる事はもう限られていて、薬で熱を抑えながら本人の体力に任せるしかないそうだ。」


と。
聞けば意識もかなり朦朧としていて、熱が41度まで上がっていました。
そして言われたこの言葉。




「御家族を呼んでおいてください、だって。
 覚悟をしておいてください、だってさ。
  いつ来れそうだ?」


・・・・



頭が一瞬真っ白になり、周りの音が聞こえなくなった。




え?

と思いつつ、頭は勝手に動いてくれる。



「休めるか聞いて、次の休み前に帰れたらなるべく早く帰る。ってか帰りたい。」
と半ば無意識で返していた。


次の休みにどちらにせよ帰る予定だった。





11月22日。








母の
誕生日。


まさかこんな事になるなんて。





電話を切った私。
すぐに姉に連絡して現状を伝える。

姉もそれはそれはびっくりしていた。
子供の一人が風邪引いて学校休んでるからすぐには帰れないと。
旦那に相談して、行ける時は連絡すると。






そこから胸がザワザワして落ち着けなかった。
涙も出なかった。


でも体と頭は動いてくれる。
有り難い。



夜はタイミングよく、と言うのは変な話だけど、サロンのスタッフと美容問屋で買い出しに行く予定だった。
向かっている道中でニューヨークに連絡し、時差でいうと朝の4時くらいにオーナーにメールした。


「夜分にすみません」
と。



次のメールを打ってる間に電話がかかってきた。
こうゆう時のオーナーの早さには頭が下がる。


事情を説明したら
「今すぐ帰りなさい」と。


「お客様は残ったスタッフがなんとかする。今すぐ帰りなさい。
 緊急事態はお互い様の精神で。
 今はがんばる時じゃない。我慢する時じゃない。」



オーナーの言葉が強くて、めちゃくちゃ温かくて



その時かな

電車の中だったけど
初めて涙が溢れてきたんだっけ。




スタッフと合流した頃には冷静さを取り戻し、いつも通り明るい彼女を前に言い出し方を考えていたのと
普通に気が動転してて逆に冷静になり過ぎた。


買い出しを普通にしていた。
何事も起こっていないかのように。


「お腹が空いたからなんか食べましょう!
 季節的にモツ鍋とかいいですよね!」


と明るく提案してくれた彼女とモツ鍋屋へ。
座ってオーダーを済ませて、淡々と話し始めたのを覚えてる。



お母さんが週末から高熱で意識があるかも怪しい状態で、
もしかしたらがあるかもしれないから明日お客様に連絡してリスケジュールして休ませて欲しい、と。






私はいつもそうだ。
焦ったりテンパったりすると、山を超えて、ものすんごく冷静になる。
気が動転してる時も、ピークを超えると周りにはわからないくらい冷静になり過ぎる。




今夜このまま帰って下さい
明日のお客様への連絡は私がします


と繰り返し言う彼女に、

「明日の朝イチのお客様には連絡出来ないから、その方をやってからそのまま帰省する」と決めていた。



何泊になるかわからないから準備したいという思いもあった。
眠れるわけもなく、準備を済ませた私はベッドに横になり目だけつぶって母の事を思いながら





朝を迎えたのでした。











あれはいつかの寒い冬。


1月の終わりくらいだったでしょうか。
ちょうど今くらいの時期だったと思います。


まだまだ母も身体は元気で、歩いたり喋ったり、自分でも食べられるし、自分の言葉で話せてた頃。
アリセプトを飲んでいた副作用もあったのかな。



とにかく母の情緒が不安定で、怒ったり、落ちたり、とにかく荒れていた頃。
当時ニューヨークに住んでいた私に連日のように姉から連絡があって、夜遅くまでよく話を聞いていました。



荒れて手がつけられない母をどうしたらいいのかと。



1月の後半、母の誕生日も両親の結婚記念日も11月で記念日的なものは何もありませんでした。
でも理由なんて何でも良かった。


バレンタインがある!
と気づいた私。


日本では女性から男性にチョコやプレゼントをあげる日ですが
アメリカは逆でした。

バレンタインの日は、マンハッタン内は大きな花束やピカピカの紙袋、バルーンを持っているメンズがあちらこちらにいたものです。



それを苦し紛れに姉に説明し、父を説得しました。



「お父さんからお母さんにプレゼントをあげて」

これが私からの提案でした。




その頃、私は一つの事に気づいていました。




母が求めているものは、父からの愛情なんだということに。




何度も父を説得。
「アメリカでは男性が女性に贈り物をするんだってば。恥ずかしくないから。それが普通だから。」
と、
母に贈り物なんて最後にいつしたか覚えてないくらいの父に、今となってはわけわからない説得を続け、なんとか母に父からわかりやすい愛情表現をしてほしいと思っていた私。



理由なんて何でも良かった。
母が求めているものをあげて少しでも荒れてる母が落ち着いてくれたらいいなと思っていた。





説得の結果、バレンタインの当日。
シェフだった父は、職場で母が好きだったアップルパイを焼き、帰りに鉢植えのお花を買って帰ったそう。
(おとん、よくやった笑!!)



物をあげるなんてしない父からの突然のサプライズ。
2つのプレゼントを持って帰宅した父を見てびっくりした母。

「しのが、アメリカでは男から物をあげるんだっていうから」とモゴモゴ歯切れの悪い父なんて目に入らない母。




姉いわく、母は少女のような顔をしていたそうです。
嬉しいのが全身から漏れていたそうです。






驚くことなかれ、
なんとそこから母は見違える様に機嫌が良くなり、情緒不安定もかなりの間収まって、
何をするにもとにかく楽ちんだったと。






その時からでしょうか。
私からの提案を父も姉も受け入れやすくなってくれたように思います。
実績を重ねて信頼を得る。
どこの世界も同じなんですねw



世間体とか、恥ずかしいとか、自分達のプライドとか。
本当に必要ない。





忘れないでほしい。
認知症の患者さんだって私達と同じ人間。


嬉しいことをしてもらったら嬉しいし、嬉しくなったら心に余裕が出来る。

心に余裕が出来たら周りに優しくなれる。



優しくされたら、こちらが嬉しい。
嬉しくなると心に余裕が出来る。


心に余裕が出来たら、患者さんに優しく出来る。




気づいてほしい。
この魔法のループに。



介護してる人が苦しくなってきた時にこそ考えてほしい事。
どうしたら当事者を喜ばせられるか。何を求めているのか。
考えてあげてほしい。



なぜならそれは自分達に返ってくるから。




何かをしてあげるっていう事は、患者のためじゃない。
自分達のためになる。


ストレスが溜まってきた時にこそ。
介護が嫌になってきた時にこそ。




魔法のループを作りましょう。
人の喜びのエネルギーは何にも変え難い価値のあるものです。




あなたの周りが喜びのエネルギーで包まれますように。











母のためじゃない。
自分達のために。



介護をする上で私が何度も口にしてきた言葉。
何度も父と姉に伝えた言葉。



介護をする上で、「母のために、母のために」と思って全てをするのはいつかどこかで息が詰まってしまう。
糸が切れてしまう時が必ず来る。

その時に思ってしまう事。
酷いときは本人にその言葉を投げ捨てる事も。

「誰のためにやってあげてると思ってるの?!」と。



介護してる家族が自分の自由が無くなり、自分の為に何かをしてあげる時間が無くなり。
抵抗されたり、暴力を受ける事もあるでしょう。
(母の機嫌が悪かった時は、よく抵抗されたし、入れ歯を取るときはよく激しく手を噛まれてました)


心の余裕が無くなったときに思わず思ってしまいます。



「お母さんのためにやってあげてるのに!」



暴言を吐いてしまう。
時には手を上げてしまう。


私はその介護者を責めきれないのです。
その気持ちが痛い程わかるから。
(プロの人は話が別。それが彼らの仕事だからそれは許されない)



私達家族も例外ではなく、本当に大変でした。
人3倍短気な父は特に。



私は家族の中で言えば云わば司令塔だったので、物事を俯瞰的に捉え、ああしようこうしよう、と父と姉に提案するポジションでした。
そして時にはまず自分がそれをやってみせ、父と姉へのお手本になる。
時には、父に指示出しをする。


二人の反応は様々でしたが、最初の頃はネガティブな反応がたくさん返ってきたものです。


「そんなの無理」「やりたくない」




そんな時私は決まって言うのでした。
「お母さんのためじゃないよ。自分達のためだよ。」
と。





それは時には魔法のコトバとなって、私達の背中を押してくれたものでした。










 

 

早いもので気付けば2017年の5月。

年が明けて瞬きをしたくらいの感覚。

 

 

でも年明けから今日までいろいろあって。

前回のブログから本当にいろいろあって。

 

 

 

 

先に書いておきます。母は元気です。

 

 


2016の夏、ニューヨークの時に8年働いていたサロンが日本で一号店を出し、そこの代表になりました。

 

 

フリーランスでいろいろやっていた最中に『責任』という名の代表の立場をいただく。

確実なステップアップで、光栄でしかない。

 

ただ、『技術』が好きな職人気質の私。

「責任」という文字が付きまとう。

 

 

フリーランスとして自由に、でも一生懸命にやってきた4年。

出会いと吸収、刺激とエネルギーに囲まれて動きまくってた4年から、生活は急変。

 

週に5日、サロンに出勤し、同じ顔とずっと仕事する。

マネージャーとして、責任者として。

 

 

大人をまとめるのは大変。

正直な感想。

ゼロから物事を組み立てるのは大変。

正直な感想。

 

 

でも

 

 

日々、クライアントが増えていくこと。

外を歩くと色んな人に声をかけられるようになったこと。

新たな人たちとつながって、いい出会いがあったこと。

 

ありがたい限りです。

 

外へ向かう感じ、広げる役目。

好きだし向いてると思う。

 

 

 

 

そしてどんなに大変でも、

 

今あるこの命と生活に

感謝なのです。

 

 

 

 

 

そこに母がいるからです。

母は今、ベッドの上で寝ているだけ。

 

母を通じて、なにがどうあれ、自分の命や自分自身に感謝させられます。

 

 

ただ、

 

 

ただ。

 

 

 

目を覚ましてる母に出会えるのが貴重になってきました。

目を閉じている母を見ることがほとんどになってきました。

 

 

 

 

父と一緒に母を訪ねると

父の声には反応します。

 

 

父が顔を近づけて母の名前を呼ぶと

ぱちっと目を明けて、ニコニコ。

 

 

でも私の方を見る前に目を閉じてしまいます。

 

 

 

私も耳元で呼びます。

 

 

「お母さん」

 

 

 

 

 

「お母さん」

 

 

 

 

 

「お母さん」

 

 

 

 

 

・・・

 

 

 

 

母には、

 

 

もう、

 

 

私の声は届かないのかもしれない。

 

 

 

 

 

父が声をかけます。

 

 

 

「おい。しのぶがきてるぞ。」

 

 

とほっぺを触ると

 

 

ぱちっと目を開けて父を見ます。

そしてニコニコ。

 

その後ろに立って、視界に入るように手を振ります。

 

 

 

 

そしてようやく私に気づく母。

 

 

 

 

そうです。

 

 

 

 

そうです。

もうここまでしないと、母に気づいてもらえなくなりました。

父のおまけとして、母に笑ってもらっているような感覚。

むなしいし悲しい。

笑ってくれるのは嬉しいけど。

 

 

 

 

 

私の声も

 

私の顔も

 

 

 

 

もしかしたらもう母にはわからないのかな

 

 

 

 

って。

本当に最近思います。

 

 

 

 

 

 

それでも

 

 

一瞬でも見える母の笑顔を見るため。

 

 

 

 

休みの日は実家に帰って

母の病室へ。

 

 

 

 

 

 

ここまでくると完全に自己満なんだろうなと思います。

 

 

私もそこまで偽善者ではないので書きますが

 

 

介護は少し介護する側の自己満があると思う。

 

 

 

 

 

辛い。

大変。

苦しい。

 

 

 

知ってます。

そこ、通ってきたんで。

 

 

 

 

でもそこを通ってきた私の意見。

 

 

 

自己満。

 

 

少なからず心の片隅にあります。

 

 

 

 

寝たきりの母のお見舞い。

 

 

 

『母のため』

ではなく、もう、ほぼ

 

『自分のため』

 

に行ってます。

 

 

 

 

 

母の顔を見て

 

母の顔を拭いてあげて

 

手を握って

 

母の好きな歌を流して

 

一緒に歌って

 

「ありがとう大好きだよ」と言って帰る。

 

 

 

 

いつも。一緒。

 

 

 

 

 

『喜んでくれている』と自分に言い聞かせて車を運転して帰る。

たとえ目を開けてくれない時が続いたとしても。

 

 

 

 

 

こうやって

先を考えたり、少しずつ心の整理をしていくんだよね。

 

 

 

本当に少しずつ。

 

 

 

母の出来ることが減っていくこの感じ。

私が母のために出来ることが減っていくこの感じ。

 

 

 

 

 

車椅子だったあの時期が懐かしい。

 

声を出してわけのわからないことを言っていた頃が懐かしい。

 

 

 

 

 

 

このまま母の声を忘れてしまうのが怖い。

 

 

 

 

それよりも先に母に忘れられてしまったのかもしれない私の声。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の

 

「お母さん」

 

の声は

一体どこに行ったらいいのだろう。

 

 

 

 

 

私の名前をいつの間にか呼べなくなった母

 

 

 

 

それでも私は願い続けてしまうのです

夢の中でもいい。

 

 

 

 

 

お母さん

 

もう一度

 

私の名前を呼んで

 

 

 

 

 

 

それでも私は懲りずに来週の休みに母を訪ね

 

 

 

「お母さん」

 

 

と呼ぶのでしょう。

母に会っている時間を大切にしたいという、自己満のために。

 

 

 

 

 

 

苦しくても大変でも

その時間を恋しいと悔やむ時が必ずきます。

 

 

 

介護は自己満でいい。

楽しみを見つけて、家族のことを見捨てないで。

そばにいてあげてください。

 

 

 

あなたは、一人じゃない。

 

 

 

 




若年性アルツハイマー型認知症と診断されてから
数年経ち、母の心のバランスが崩れることも多くなった頃


多く見られるようになったのが、幻聴・幻覚でした。
それがひどくなり、徘徊もしばしば起こりました。




今回は幻聴から来る母の行動や、家族には困ってしまうような母の発言への私なりの成功例を具体的な例と共に書き残したいと思います。





以前の記事で、母の幻聴には3人が多く出てくることを書かせてもらいました。



 
一人は、「神様」
もう一人は、「父親」
そして最後の一人は、「私の働いていたニューヨークのサロンのオーナー」

です。


他にも、斜め向かいに住んでるおばさまや、母の兄弟や、昔働いてたとこの人など。
それは様々な人たちが出てきましたが、多かったのが上の3名です。



時には会話しているように、
時には一方的に呪文のように。


聞こえてくる声に対してずっと話していた母。



お辞儀もしていましたし、時にはご飯を食べる手を止めてまで話していました。


最初はなんのことやらわからず、対処の仕方もわからず、話し続ける母に正面から向き合ってしまっていた私たち家族。






当時ニューヨークに住んでいた私は、物事を外から見れたので
父と姉よりもいち早く、その奇妙な幻聴に対する向き合い方を見出しました。





お医者さんやカウンセラー、今ではネットや本、どこにでも載っていますが
当時はほぼ、「どうしたらいい」という情報が極めて乏しく、自己流を見いだすしかなかったんです。



当時の私、25歳。
当時の母、61歳。




今となっては常識にさえ近いですが、

患者さんを否定してはいけません。
間違えてると言ってはいけません。


責めてはいけません。
出来なくても怒ってはいけません。





ひどくなってきていた母の幻聴に対する家族の最初の頃の接し方
          ↓

「お母さん誰と話してるの?」
「誰もいないよ。」
「ずっとしゃべっててご飯食べてないじゃん。」
「いない人と話してないで、目の前にいる人と話しなよ。」
「静かにして。」
「そんなことその人言ってないよ。」
「今ここにいない人がそんな事いってるはずない。」



全て、全て、全て。
はい。大間違いです。




私が父と姉に見せた改善策
          ↓

「お。神様きてくれたんだね。よかったねー!」(話させる事で脳の活性化を図る)
「うんうん。それでなんだって?」(聞いてあげるとこちらに嬉しそうに話してくてる)
「あ、そういえばそんな事言ってたかも。」(同調してあげて自分が間違えてないと安心させる)
「へー!そうなんだ。知らなかった!教えてくれてありがとう。」(自分が情報を教えてあげてるという気にさせて、自信を持たせる)


表情が明るくなります。
現状にぶつかった時、家族は辛くてきっとイライラしたり、なんでこれがいいのか理解しがたいと思いますが、
後々患者さんの心のバランスが崩れた姿を多く見るようになったり、話す事しなくなってしまった時に、もっとこうしてあげればよかったと後悔します。

間違えてる、否定する、責めるという行為を患者さんにすると
本人の自信を失わせるだけでなく、家族に対する信頼も無くします。



味方がいないと感じる事が多くなると、塞ぎ込み、心のバランスが崩れるスピードが早くなったり、悪化のスピードが早まります。


イコール=


家族が大変になります!!!!
すこぶる悪循環なんです。





絶対に否定したり責めたりしないであげてください!





さらに、もしもこちらに都合の悪いようなことを言ってるという場合もあります。
例えば。


・夜中に「お父さんが来いって言ってる」と家から出ようとしたがる
・ご飯を食べる時に「神様がこれから来るとおっしゃってる」とご飯を食べようとしない(薬を飲まないといけないのでご飯は食べさせたい、ご飯を食べた後にやらなきゃいけない事がある等)
・病院やお店、公共の場にいる時に「お父さんが帰って来いって怒ってる!」と怖がりその場にいなきゃいけないのに動こうとする



など、例を挙げ始めたらキリがないのですが。



そういった場合、正面からぶつかっても絶対にうまくいきません。
叫んだり、暴れたりしてしまうかもしれません。




その場合、私が思いついた方法。





母の幻聴の相手を利用する



事です。






こう言ってしまうと聞こえは悪いですが、

患者さんの、「少し経ったら忘れる」のをうまく活用するのです。

ここにきて、そんなの「かわいそうだから出来ない」なんて筋が通らないレベルまできています。



患者さんに正論をぶつける事は、人格否定につながり、悪化を進めます。
なので、こちらが冷静になり、利用できる事は利用する。




私は母を守るためにこれを思いつきました。





都合の悪い状況になってしまった場合の例えばの方法は





私もその相手としゃべる
私が代わりに話してあげる
私が聞いた話と違うから確認すると言ってその場で話すふりをする
私が代わりにやってみるふりをし、母がする必要性がない事を示して安心させる






などなど、です。






先ほどの例で照らし合わせると




・夜中に「お父さんが来いって言ってる」と家から出ようとしたがる
  
対処例ー
「ほんとに?それは大変じゃあ出かけられる準備してくるから待ってて」といい、部屋のドアから一旦出て少しして戻る。少し経って戻り、「はー眠い眠い。私もお母さんと一緒に寝ていい?」などど優しく話しかけて寝ようとする
              ↓
結果:
私が部屋から出て戻って来たというアクションが母に植え付けられ、もともとの内容を忘れている場合が多かった。
一緒に寝よう、と誘うことで安心し、心が穏やかになりやすくなったことも多々。
*ただし、それでも覚えていた場合もありました。
その場合、「じゃあ出かけられるようにトイレ行こう」とトイレに行かせて出かけることを忘れさせたり、簡単に着替えさせたり私が着替えたりしてもともとの出かけるという行為を忘れさせてあげました。





・ご飯を食べる時に「神様がこれから来るとおっしゃってる」とご飯を食べようとしない(薬を飲まないといけないのでご飯は食べさせたい、ご飯を食べた後にやらなきゃいけない事がある等)


対処例ー
「え、ほんとに!?じゃあいらっしゃってからご飯食べてたら失礼だから今食べちゃおう!」
「私も聞いたよー!でもその前にご飯食べておきなさいって言われたよ。」
「あ、神様?はい。どれくらいでこちらにいらっしゃいますか?あ、もう食べてこられたんですね?ではこちらも食べ終えてお待ちしておいた方がよろしいですね。」
等、幻聴の相手との会話に入ったり、自分もその人と話せるふりをして一歩先の伝言を伝える。大事なのは、母が神様を慕っていたのでこちらも慕って大切に扱っている事を示す事。


結果:
私を仲間と思い、私の話に同調してくれたり、私の提案に賛成してくれる事がほぼだった。
あとは、神様として拝んでいたので一緒に拝んであげるふりをし、こうした方が喜ぶ、こうしたら失礼だからやめよう、と言って実際こちらがしてほしい事に誘導する。すると比較的すんなり受け入れてくれる事が多かった。





・病院やお店、公共の場にいる時に「お父さんがどこにいるんだ、早く帰って来いって怒ってる!」と怖がりその場にいなきゃいけないのに動こうとする

公共の場での幻聴は対処が大変ですよね。声も荒げられません。


対処例ー
「さっき電話しといたから大丈夫だよ」
「え。いつ?今お父さんが、しのが一緒なら大丈夫だからたまにはゆっくりしてこいって言ってるんだけど。怒ってたの少し前じゃない?」
「あー!ごめん!私がお父さんに電話するって言ってて電話するの忘れてた!!今電話するね!!」と言って携帯電話で電話かけるふり、そのまま話してるふり。「大丈夫だって~。」と伝える。
「今からお父さんも来るから、ここで二人で待っててって。もうすぐ着くって、機嫌治ってたよ。」

結果:
ほぼ確実に安心して落ち着きました。

母の場合、父に対してこわいというイメージが強く、常に完璧な妻を目指していた母は、父がいないところで何かをしていたり、父がいないのに勝手に出かけてるという事に対し、「怒られる」と怯えていう事を聞かなくなってしまう事が多々ありました。
ここで、父からの暴言や暴力に対するストレスや恐怖心を私たちには一切それまで見せず、一人で持ち続けていた事がわかった悲しい時期でもありました。
なので、大丈夫だという安心感を与えてあげる事に徹しました。










なんとなく見えてきているかもしれませんが、
大事な法則は数点です。






一緒の事をする事によって、こちらが仲間だと思わせる


しなきゃいけない行動を忘れさせるために、他の行動をする


同調したり、便乗したりして患者さんの思い込みを新しい情報に塗り替える






以上の事に共通する目的。

それは




『安心させる』『信頼を得る』『自信を持ち続けさせる』




事でしょう。
特に、『安心させる』事。



大丈夫、お母さんは間違えてない。
私たちは味方だよ。
安心して、お母さんは私と一緒だよ。



と示してあげる事です。





まさに発想の転換でした。





『!!すぐに忘れるという症状を逆に利用する。!!』





聞こえは悪いですが、母の幸せを思って私が考え抜いた事。





それを実行し、父と姉の前で私がそれを見せ、二人に教えました。
目の前で手に取るようにわかる結果に二人も少しずつやり始めました。





それで今までぶつかっていた家族と母の関係が丸くなり、雰囲気も良くなりやすくなっていきました。

何よりも、家族と母自身の心も体も楽になった、というのが一番の収穫でした。






介護する家族に必要なもの





患者さんを想う気持ち
大変ですが忍耐
大目に見てあげる気持ち
(わかります。この三つ、本当に大変ですよね。でも無理な自分を責めず、常に心がけることが大事。諦めないでください。)





あとは、『愛のある嘘』!!!



幻聴で聞こえてくる相手と自分も話せるという嘘。
大丈夫だという状況を作る嘘。
安心させるための嘘。




と、少しの演技力





ですかね。


あくまでも、自分と母、家族と母との間での対処です。
他人を巻き込む時はその方の迷惑にならないように、柔軟性を持って考えて嘘をついてあげること。





これを参考にして、自分なりの法則を、介護してるご家族の方々には見出していただきたいです。
患者さんは孤独で不安。



どうか味方でいてあげてください。
安心させてあげてください。
自信をもたせてあげてください。




それが出来ると、本当に進行が遅くなるのが目に見えてわかります。



言い方を変えれば、悪化を最小限度に抑えられるので、介護する方が楽なんです!







介護する方も、される方も。
お互いに少しでも楽になれる参考として。




私たち家族はこのように一番母の心のバランスが崩れていた時期を乗り越えていきました。