1970年6月~9月 最高幹部・川島奪還指令と爆弾闘争(革命左派) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

川島逮捕以来の革命左派の動向をまとめておく。


1970年2月、大槻節子が活動再開。かなり張り切って伊藤和子をメンバーにオルグする。


1970年3月、革命左派の最高指導者・川島は獄中において「もう活動はしない」といいだした。永田は驚いて組織の将来が不安になるが、坂口はすぐ保釈のための偽装転向と見破った。とはいえ、偽装転向とはいかがなものだろうか。永田、坂口、若林、柴野、中島の5人が協議するが、積極的に支持したのは坂口だけで、他の4人は、川島がいなければ組織が機能しないとの理由でしぶしぶ了解することになった。


1970年5月末か6月初旬ごろ、川島は面会の坂口に対し、暗に「自分を奪還しろ」と指令を出す。これを受けて永田らは奪還計画をたてる。彼らは、要人誘拐による人質交換を考えたものの、うまい方法が見当たらず、やっていることはあいかわらずの爆弾闘争だった。


同時期に永田と坂口は川崎のアパートで共同生活を開始する。川島の面会に行く永田には露骨な尾行がつきまとうようになる。


1970年6月から9月にかけて、向山茂樹、岩田平治、伊藤和子、中村愛子、早岐やす子、宮田明子、瀬木政児らが、新たに革命左派関係者になった。


1970年9月の常任委員会では、5名の投票により永田が委員長に選出される。永田に投票したのは、柴野、坂口、寺岡の男性3名、坂口に投票したのは、永田、若林の女性2名だった。



■1970年6月1日 立川基地でマイト爆発(毎日)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-06-01 毎日 [革命左派] 立川基地爆破

■1970年6月9日 これが「京浜安保共闘」(読売・夕刊)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-06-09 読売 [革命左派] これが京浜安保共闘

 新聞では「京浜安保共闘」と表記されるが、これは事件にかかわった「革命左派」の公然組織の総称である。ただ後の山岳ベースのころになると、公然組織も地下組織も、合法部隊も非合法部隊も渾然一体になってしまうので、明確な区分ではなくなってしまう。


■1970年9月2日 相模原市米軍基地2ヶ所爆破(読売・夕刊)

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-09-02 読売 [革命左派] 相模原市米軍基地爆破

 なお、5月26日に横田米軍基地爆破、6月24日に大和田米軍基地爆破を決行しているはずだが、新聞記事になっていない。当時、安保、反戦などの闘争が多く、爆弾が1つや2つ爆発したくらいではニュースにならなかったようだ。


■土浦会議

 さて、1970年9月になると、獄中の川島は苛立ち「なにをぐずぐずしているのか。本当にやる気があるのか」と続けざまに恫喝的な手紙をだす。


 これを受けて、要人誘拐の方針から、銃による直接奪還へ方針を転換する。そして11月に土浦で開かれた党会議で永田洋子が奪還計画を公式に発表する。


 土浦の党会議には、柴野氏、坂口氏、中島氏、尾崎氏、前沢氏、牧田氏、私(永田)のほか、大阪の若林さん、渡辺正則氏、名古屋の雪野氏も参加した。この会議では、ゲリラ闘争の開始についての意思一致が行われた。・・・会議が終わったあと、坂口氏と柴野氏は、
「この土浦会議は、日本の革命運動史上、歴史的なものになるんだ」
といっていた。(「十六の墓標(上)」)


 まさに日本の革命運動史上、歴史的な悲劇の始まりだった。1970年12月、川島奪還計画の実行で、まず銃を奪取しようと上赤塚の交番を襲撃するが失敗し、横浜国大生・柴野春彦が射殺されてしまうのである。


この川島奪還計画を起点に連合赤軍事件へ一直線につながっていくのだった。


川島奪還計画
→銃奪取計画
→上赤塚交番襲撃(柴野が射殺され失敗に終わるが赤軍派がその勇気を絶賛)
→真岡銃砲店襲撃(銃奪取に成功)
→当局による革命左派弾圧
→山岳ベースへ逃避

→逃走資金枯渇のため赤軍派と接触
→山岳ベースで赤軍派と合流
→連合赤軍結成