連合赤軍リンチ殺人事件の報道をふりかえる(筆者) |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■新聞とはかくなるものであったか
 写真が一枚もなく、当事者たちは死んでいるか、留置場の中にいる。だから記者は、逮捕されたメンバーの供述のリーク情報によってしか記事を書くことができなかった。メンバーたちは断片的な供述しかしないから、それをつなぎ合わせ、足りないところは想像で補って記事をつくりあげた。もともとのリーク情報さえ、当局の想像で組み立てられたものだったから、「警察は・・・とみている」という責任転嫁の表現をせざるをえなかった。


 当時は永田や坂口の手記はなかったから、報道に接した当時の人たちは、森恒夫や永田洋子を悪魔だと思っていた。筆者もそう思っていたから「十六の墓標」(永田洋子)をはじめて読んだとき「あれれ?」と拍子抜けしたものだ。そして「どうしてまともな思考の人が、あんな常軌を逸した事件をおこしたのだろう?」と興味を持ったのである。なぜなら彼らの手記に書かれていた思考や判断は私たちのそれと別段変わるところがなかったからである。


 私たちはマスコミを通してしかニュースをしることができない。特に新聞記事は多くの人が信頼している。しかし、ときとして一線を越えてしまうことがある。それはどんなにひどいことを書いても、誰からも文句を言われない状況において起こる。連合赤軍事件もその1つだったし、オウム真理教事件のときもそうだった。逮捕されたメンバーはどのような気持ちで新聞を読んだだろうか。


 おもしろいことに、新聞がセンセーショナルに報じたのに対し、週刊誌はきちんと取材した記事が多い。おそらく新聞にお株をとられてしまったことと、新聞ほどリーク情報が得られないことによるからだろうが、周辺人物の取材をして事件を検証する、という落ち着いた記事が多いのである。


■今後の予定
さて、1972年4月以降も取調べが続き、1973年から大荒れの連合赤軍裁判へと続くことになる。その間には森恒夫の自殺もあり、坂東国男のアラブ行きもある。しかし、先へ進める前に、一度時計を戻して、赤軍派と革命左派(京浜安保共闘)が誕生したころからの彼らの新聞記事を振り返ってみたい。