1972年2月17日 最高幹部の永田洋子と連れの男を逮捕 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■山中に過激派の捜査網 車にろう城の男女逮捕(朝日)

 つかまったのは奥沢修一(22)と杉崎ミサ子(24)。妙義湖畔の林道でライトバンがぬかるににはまっているところを職務質問された。車を押していた男3人は山中に散り、車内にいた男と杉崎は、内側からロックし、カン詰をあけて食事をしたり。カーラジオを聞いたりして中に閉じこもったままだった。


 「職質に車ろう城9時間」(読売新聞見出し)というのだから、大したもんである。警官は強制連行したいものの理由がなく、手が出せないでいたが、山小屋を作る際、山林を伐採したのに気づいて、森林法違反で逮捕した。


 杉崎と奥沢はインターナシナルを歌い、カーラジオをボリュームいっぱいにかけ、警察の説得に「アッカンペー」を して応える。腹が減るとカン詰をあけて食べるが、生理現象だけは我慢できない。実は、警官もそのほうの要求から降伏してくることを期待していたのだが、彼女はなんとフロアにしゃがみこんで2度のその"用"を足した。(「週刊新潮」3月4日号)



■逃走中の2人を逮捕 最高幹部の永田洋子 連れの男、刃物で抵抗(朝日・夕刊)


連合赤軍事件アーカイブス-1972-02-17 夕刊09

連合赤軍最高幹部・永田洋子の著作「十六の墓標(上)(下)」は彼女が逮捕された時点で終わるが、そのときの記事である。このとき警察が捜査していたのは「京浜安保共闘」であり、「連合赤軍」ではなかった。だから各紙とも「京浜安保共闘の最高幹部・永田洋子ともうひとりの男」となっている。連れの男はもちろん、連合赤軍の最高幹部・森恒夫なのだが、当時、警察は森は小物扱いでノーマークだったし、以前の写真とは風貌がかけはなれていた。また、京浜安保共闘と赤軍派が行動をともにしているとは知らなかった。


■クサイが命取りに(朝日・夕刊)
京浜安保共闘のメンバーを追い込んだのはかれら自身がふりまいて歩いた"悪臭"だった。数ヶ月の闘争を続け、フロにも入れず顔や手足はまっくろ。衣服もテカテカに光っていた。グループに接触した人たちはその悪臭でかれらのことをよく覚えていたため、はっきりと足取りがつかめた。バスの運転手、車掌のともグループのことをよく記憶していた。かっこうがあまりにもきたないので、レンタカーを借りるのも断られた。「グループが車から出たあと窓を開けて臭気を出さなければならなかったですからね」とタクシー運転手はいう。杉崎らが逮捕された妙義山でも服装の汚れと悪臭が警察官に不審をもたれたのがきっかけだった。


連合赤軍メンバーの汚さと悪臭はかなりひどかったらしい。彼らがバスやタクシーや売店を利用するたびに、応対した人は彼らをよく覚えていた。だから彼らがこのあたりに潜んでいることを警察はすでにつかんでいて捜索したのであった。ちなみに連合赤軍の服務規則には以下のように書いてある。


「散髪は月一回(長髪禁止)。入浴は週二度以上。洗たくは週一回以上。下着洗たくはひんぱんに励行せよ。」(第6章6項)
「靴をみがき、髪を整え、爪を切り、ひげは必ずそり、清潔なズボン、ワイシャツを使用すること。」(第4章11項)


■その他の記事
男は人相などから京浜安保共闘の吉野正邦(23)とみている。(読売)

永田の逮捕後の様子は、髪の毛はボサボサで、顔は油ぎり、男と2人で観念したようにほとんど抵抗らしい抵抗もせず、松井田署に連行された。永田は歩けないほどつかれきっており、ひきずられるようにして係官と一緒に2階の取調室にはいった。(毎日)


永田の「十六の墓標」によれば、「とぎすまされた精神は続き、絶望などはなく今後は今後の闘いを全力でしていこうと思った。」とのこと。