1月7日から始まったラボッさんのエッセイ、第二部を始めました。
〈第一部〉
- PREFACE 序文
- #1 幸せになる義務
- #2 義務を果たす幸せ
- #3 本の賛歌
- #4 本の選び方
- 付録:19世紀の科学者が推薦する本100選
- #5 友人の祝福
- #6 時間の価値
- #7 旅の楽しみ
- #8 家庭の喜び
- #9 科学
- #10 教育・学習
〈第二部〉
- PREFACE 序文、再び
- #1 野心(1)(2)(3)
- #2 富・財産(1)(2)
- #3 健康(1)(2)(3)
- #4 恋愛(1)(2)(3)
- #5 芸術(1)(2)(3)
- #6 詩(1)(2)(3)
- #7 音楽(1)(2)(3)
- #8 自然の美しさ(1)(2)(3)(4)(5)
- #9 人生のトラブル(1)(2)
- #10 仕事と休息(1)(2)(3)
- #11 宗教(1)(2)(3)(4)(5)
- #12 進化への期待(1)(2)(3)
- #13 人の運命(1)(2)(3)
ラボッさんいわく、
「どちらにしても、
死を悪と見なすことはできない」
人の運命が不死・不滅ではないとしても、人間それぞれが自分に合った時期に死を迎えることは望ましいことだ。
なぜなら、自然はすべてのものに境界を定めているように、生命にも境界を定めている。
老年とは生命の到達点であり、演劇のようなものだ。疲労や苦悩から離れるべきであり、特にお腹いっぱいに人生を味わったなら、なおさらそうだ。
私は、個人的に
死生観について考えるのが好きですが、
一般的には「縁起でもない」とタブー視されがち。
アメブロ繋がり以外でこういうことは話さないけどね。
スピ界隈でさえ、死生観の話を嫌がる人は多い。
ラボッさんの本章の話は、
私が取り留めなく考えていることを
言語化してくれているようで…
/
最近、自分の前世だと主張するのは気が引ける。
シャルルさんやラボッさんの功績を
私が横取りするみたいで、申し訳ない気持ちになる😢
\
でも、前世うんぬん抜きで、
ラボっさんは「私と同じことを考えている」と感じる。
親しい人を看取った経験のある人は、
下記の詩(?)から何か感じるものがあるかも
死のために泣くことはない
熱病が静まっただけだ
痛みは抑えられ、恐怖は静まり
厳粛な希望が成就したのだ
まどろむ深淵を照らす月光は、
ほとんど静まることはない。なぜ泣く?
死のために泣くな!
涙の泉は封印され、閉ざされた瞳に
内なる光がどれほど明るく輝くか、誰がわかる?
冷たく静止したように見えるハートを
聖なる愛がどれほど満たしてくれるのか、
誰が知ることができる?
死後、肉体から離れても意識が消えず、
記憶の連続性(アイデンティティ)を保ったまま、
どこか別の世界——つまり天国へ移行するとしたら。
天国とはどんなところか?という仮説
禁欲的で独断的な神学者や、繊細な神秘主義者のものではなく、与えることも耐えることもできる厳格な殉教者のものでもない。神が約束した天国とは、清らかで不滅の愛情がある所だ。
天国で「暮らすための競争(試練)」があるという話は、一部の人間の理想と確かに一致する。
もしそうなら、死後の世界は今よりも……
平和に楽しむことができれば、この世はとても美しい。
だが、単なる受け身な人生、つまり植物状態で生きていたら、この世にほとんど魅力を感じないだろう。
実際、ほとんど耐え難いものだ。
わかっている範囲で、
ラボっさんは恵まれた環境の人だけど
平和に楽しもうと意識して努力しなければ、
この世で生きることは、「ほとんど耐え難い」らしい。
私自身もそうだけど
ラボっさんもシャルルさん(臨終のいきさつ)も
ゆるやかに死を待ち望んでいるフシがある。
今回も考えさせられる内容でしたが、
下記の引用部分で、ぞっとした。
時々、夜に星を眺めながら、「実体のないスピリットとなった私が、星を訪れて探索する特権を得ることができるだろうか」と考える。
大旅行をした後、新たな興味が湧いてきて、再び始まるのかもしれない。
なんだかラボッさんが、
死後に好きなこと(しかも宇宙探索!)をして
新しい好奇心のタネが生まれたら
再び地上に生まれ変わることを暗示しているようにも…
アメブロで紹介している内容はほんの一部です。
詳細は、本編をご参照ください。
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ラボっさんのエッセイ原文も期間限定で公開中。全編英語です。