
1月7日から始まったラボッさんのエッセイ、第二部を始めました。
〈第一部〉
- PREFACE 序文
- #1 幸せになる義務
- #2 義務を果たす幸せ
- #3 本の賛歌
- #4 本の選び方
- 付録:19世紀の科学者が推薦する本100選
- #5 友人の祝福
- #6 時間の価値
- #7 旅の楽しみ
- #8 家庭の喜び
- #9 科学
- #10 教育・学習
〈第二部〉
- PREFACE 序文、再び
- #1 野心(1)(2)(3)
- #2 富・財産(1)(2)
- #3 健康(1)(2)(3)
- #4 恋愛(1)(2)(3)
- #5 芸術(1)(2)(3)
- #6 詩(1)(2)(3)
- #7 音楽(1)(2)(3)
- #8 自然の美しさ(1)(2)(3)(4)(5)
- #9 人生のトラブル(1)(2)
- #10 仕事と休息(1)(2)(3)
- #11 宗教(1)(2)(3)(4)(5)
- #12 進化への期待(1)(2)
ラボッっさんいわく、
人類は、自然の驚異的な範囲と
複雑さに気づき始めたばかりだ
ひとつの真理が別の真理につながり、それぞれの発見が別の発見を可能にし、さらに、より高い発見を可能にする。
ラボッさんは、人類の未来には伸び代があると考えている。
だから本章のタイトルが「進化への期待」なんですね。
このエッセイは、
第一部が1887年発行、
第二部が1889年発行。
当時の科学技術では、
顕微鏡の性能をどれほど高めても、
光の性質(屈折率など)ゆえに
人間が「見る」限界がある…という話が出てきます。
具体的に言うと、
直径1/100000インチより小さい物体を
見ることはできない。
当時、「物体を構成する究極の原子」は
大きくても直径1/50000000インチと推測されていて
人間の技術では観察して知見を得ることは不可能だと…
19世紀の人にとって、
ミクロの世界は「人間の限界」であり、
「神の領域」だったわけです。
なお、この限界は、
1930年台に電子顕微鏡が発明されることで
パラダイムシフトが起こります。
それまでの光学顕微鏡よりはるかに優れた分析力で、
人類の科学技術はさらに飛躍しました。
21世紀を生きる私たちは、
それと知らずに科学の恩恵を受けているはずです。
前回、#12 進化への期待(1)に出てきた
ラボっさんのこの言葉
私としては、そのような制限を設けることは避けたい
不可能と思われていたことが実際に達成されたのだから、科学の可能性を制限することがいかに危険であるかを示している。
まさに、人間の歴史とは「限界突破の繰り返し」でできている。
今の技術、あるいは今の私には無理でも、
未来の技術、未来の私には可能かもしれない。
だから、限界を決めつけない。
希望を…愛と知性を捨てずにベストを尽くす。
書斎にいるラボッさんのスケッチ。顕微鏡がある👀
ここまでは科学者らしい哲学のお話。
いいこと言ってるけど、飽くまでも「想像の範囲内」
この先、だんだん
19世紀人とは思えない
ぶっとんだ話題になってきます。
ついてこれる人がいるか分かりませんが、
ついてきてー!
ラボッさんは「人間が感じている世界」と「他の動物が感じている世界」の違いに言及。
人間の目には見えない色や聞こえない音があることが判明している。
人間には感知できない色や音(もしかしたら五感以外に未知の感覚も…?)を
見聞きしている動物は、一体どんな世界で生きているのか。
私たちを取り巻く身近な世界は、他の動物とはまるで違う場所かもしれない。
動物たちの世界は、人間には聞こえない音楽、見えない色……、想像もつかない感覚に満ちているかもしれない。
ラボっさんは、人間以外の生物=動物としてますが
21世紀人が考える人外=宇宙人の感覚や世界観について
想像する状況に似ている。
「人外の感覚、人外が見ている世界」について
まじめに考察している人なんて、
21世紀現在でも、かなりの異端でしょうよ。
動物たちの習性を観察して、相互関係を理解し、本能と知性を研究し、自然界への適応と力関係を確かめ、動物たちが世界をどう見ているかを理解する。
それこそが自然科学の面白さの真髄だと私は思う。
現時点では、まったく想像できない感覚や知覚への手がかりを与えてくれるかもしれない。
これらをはじめ、ほかにも多くの謎が残されている。
この観点から見ると、進歩の可能性はほぼ無限にあるように思える。
アメブロで紹介している内容はほんの一部です。
詳細は、本編をご参照ください。
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