日本人の苗字は実に多くのものがある.唯,非常に気になる苗字がある.「伊集院」である.窪田志一氏の著書にはその伊集院の由来が記されている.文献1)
…その語源は嘗て薩菩聖なる柚子の香りの大好きな波斯天竺僧が柚子を齎し,伊集院は野も山も柚子の植え込みで満ち満ちた柚子の里であった為,倉院が出来た時「柚子院」と名付けられ,それが転化して「伊集院」となったものだといい,薩摩の名はこの薩菩聖の名から生まれたものだ….
そして,琉球列島から薩摩に上陸した豪族紀氏が伊集院の地に都して伊集院氏を名乗ったという.ところが以外にも,現在,この苗字の方が少ないのである.令和のこの時代においては極めて低俗ではあるが芸能人で「伊集院 光」というのが度々テレビに出て来る.私が調べた限り彼奴は在日朝鮮人脈であろう.古い由緒ある伊集院の名を軽々と騙ることは断じて許されない.本物の日本人の伊集院さんは日本全国に2800人ほどしかいない.
一方,橋口さんは32700人もいる.岩屋梓梁の本名は「橋口弥次郎左衛門兼清」だが,橋口家は伊集院家と太い繋がりがあったにもかかわらず,伊集院の方の繁栄がストップしているのはどうもおかしい.戦国期から江戸時代にかけて何か大きな事件があったに違いない.
ところで,窪田志一氏著「易断政府を樹立した岩屋梓梁」には次のように記載されている.文献2)
…家康と通謀した島津義久が伊集院忠真を慶長7年(1602年)に刺殺した.誠に悲惨な絶滅をするに至った.関ケ原戦後西軍に就いた島津が廃滅されなかった理由は実にここにあった.…
巷の歴史研究家が戦国期から徳川幕府と言えば関ケ原の戦いばかりに関心が向くが,それには理由があった訳である.伊集院氏本家の絶滅が関ケ原戦と同時期の1600年前後にあったのである.島津家というのは元々伊集院家の家来であった.伊勢地方に住む「志摩戸」または「志摩津」という名の海女頭が銛(もり)で海産物の狩猟を生業としていた.島津家の家紋の丸に十文字はこの銛の形から来ているという.永年伊集院家に仕えて来て,あるとき,岩屋梓梁の時代に至って薩摩全域を島津が支配するようになり,伊集院家が衰えて来た.そういった頃合いを見計らって,関ケ原の合戦を島津義弘など各戦国武将にやらせている最中に,薩摩本国ではその兄の島津義久が伊集院家との討滅戦をやっていたのである.そして,伊集院氏本家が遂に滅んだ.この後の徳川勢と島津勢とのやり取りについて,次のように述べてある.文献3)
家康が島津に与えた岩屋梓梁抹殺指令
……
(一) 伊集院本家絶滅の指令
……
伊集院本家の絶滅が家康の指令であることは,島津義久が伊集院幸侃誅殺と忠真の庄内(宮崎県都城付近)反乱の原因について,それらを絶対に口外他言しないよう部下の新納忠元,鎌田政近,平田増宗,新納旅庵,樺山久高ら15名の武将に,秘密厳守の起請を為さしめ,その起請誓紙を義久がさらに家康に提出して,関ヶ原戦の時島津義弘(義久の弟)が西軍石田方について,家康に反抗したことの処罰緩和の請願の資料の一つとしたことからも分かるのである.
この事件だけでも,島津というのが果たしてこの薩摩の地でやって来たことが,我々鹿児島県民にとって本当に正しいことであったかどうか,実に疑わしいと判断せざるを得ない.日本の歴史において伊集院氏の事績がどれほど大きな存在であるか,窪田志一氏著を紐解きながら今後私は改めて詳しく述べて行きたい.
島津家は今現在も鹿児島市照国神社にある照国文庫資料館で島津家先祖代々の功績を讃えるべく数々の資料を陳列させている.
島津氏28代当主 島津 斉彬 公
島津の殿様の肖像画は全員ある種の漫画風であるが何故か?丁髷姿のこの島津斉彬公の画像を見ると私はいつも何か違和感がある.本当は鮮明な洋装の写真が蔵してあるに違いないが,今のところ全く公表されていない.資料館の中には岩屋梓梁が若い時に執筆した「質問本草」があったりで,他の多くの業績が陳列されているのだが,如何にもこの薩摩を数百年の長きに亘り島津氏だけが独り支配して来たといったふうな自惚れた雰囲気が漂って来て,私は実に不愉快になる.鹿児島県民はそろそろ歴史の真実を深く追求し,島津家が何百年もかけて抹殺して来た他の家系の事績,特に,岩屋梓梁や西郷隆盛などのこと等に関して,より深く注目しなければならない.日本を牛耳って来た徳川や毛利,島津,大久保利通等の貴族の末裔の古い体質を根底から覆して,新しい庶民のパワーが炸裂するときが愈々到来する.
文献
1) 窪田 志一:岩屋天狗と千年王国 上,岩屋梓梁顕彰会,pp.184-185,(1987).
2) 窪田志一:易断政府を樹立した岩屋梓梁,岩屋梓梁と易断政府研究会,p.182,(1972).
3) 窪田 志一:岩屋天狗と千年王国 下,岩屋梓梁顕彰会,pp.184-185,(1987).